バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

正しい生き方(No.6)

             アブラハムが求め続けたもの




アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。
                                                                                  【創世記12章8節】


ベテルの祭壇
 アブラハムは、シケムの出来事があって以来、自分の人生が180°変わることになりました。主なる神が直接、自分と出会って下さり、顔と顔を相まみえて交わった以上、自分は今後どうなっても構わない!と。そして自分が求めたら、主なる神は必ず応えて下さる!という信仰が、この時から芽生えたのです。


 このシケムの出会いの後に、アブラハムが築いた「祭壇」の目的は、如何なるものであったのか?これが今回学ぶべき第一の奥義です。アダム(エバ)が築いた「祭壇」は、「罪」の贖いを子羊として捧げる、神に対する礼拝(真実の表明)を目的とします。


 それに対して、アブラハムが今回から為した信仰表明は、その都度神が導かれたフィ-ルドを聖別して、まるで道標(みちしるべ)の如くに、「祭壇」を築き上げることに力を注いでいます。仮に彼が、「シケム」を最高の出会いの場として考えたのであれば、そこに拠点を構えればよいのですが、彼はあくまで「導かれた」ことを記念として、つまり生涯忘れない出発点(原点)として、次なる導きの場へと出立し続けているのです。


 勿論彼も「人の子」ですから、ある時は旅の途中で「休息」を取ります。しかし、この「一休み」が問題となります。人は「一休み」をしますと、ここは楽(平安)な所だから、ここで少しばかり「羽」を伸ばそうではないか!等と、自分勝手な判断で、旅の「前進(歩み)」を一時的にストップします。


 アブラハムの「信仰」の素晴らしい点は、シケムに長居することなく、次の導きの場(ベテル)へと旅立ったことです。何故そう出来たのかと言えば、彼は「シケム」という、神との出会いの場を、常に「信仰」の礎としたからです。


 ご存知のように「礎」とは、構造物を支える安定した「土台」です。つまり彼にとって「シケム」は、常に「信仰」の土台であり、「神が私とお会いして下さった以上、私が求め続け、渇き続けさえすれば、主なる神は私の人生全てに渡って、(私が何処に居ても)必ず応えて下さり、お会いして下さる!」と、告白し続けたのです。


 私たちの「信仰」の目的は、それぞれに千差万別ではないでしょうか。ある人にとっては「神からもっと愛されたい!」、また「常に神と交わりたく、祈りに専念したい!」、そして「自分の人生(命)を懸けて、神に栄光を現したい!」など。


 しかし実は、その中で一番大事な「目的」があることを、アブラハムの「生き様」から、私たちは学ぶ必要があります。この大事な「目的」を、私たちが「一休み」するなどして、見失って(忘れて)しまいますと、問題が起きて来るのです。


 アブラハムが求め続けた「信仰」の目的、それは「エデンの園」の霊的回復でした。つまり「神」と「人」が、共に暮らし合う聖所(フィ-ルド)が、この地上に再び実現されるべく、彼は絶えず「選びの場」を求め続けました。彼がその後、行く先々で祭壇を築き上げた理由、それは「シケム」における、真の神との出会いがあったからです。ですから彼にとって「祭壇」とは、まさしく神との「親しい交わり」を現す、神の家(宮)そのものです!


 そうです!「ベテル」とは、神の家(宮)です。自分が先ず、①神の豊かな「贖い」の御業にひれ伏し、続いて②築き上げた「祭壇」の御前で座しながら、③神ご自身の「御心」を謙虚に待ち続けること、このために必要な霊的フィ-ルド、それが神の家(宮)です。主なる神は、私たちを霊的な「実子」とした以上、私たちが霊的に豊かに成長していけるよう、「交わりの場」、即ち「神の家」を必ず提供して下さいます。


神と共に生活する信仰
 覚えて戴きたい、今回私たちが学ぶべき第二の奥義は、主なる神は家庭内別居の如き、「礼拝者」を求めている訳ではない!という点です。具体的には、例えば「主よ!私は今、大変な出来事に遭っていますから、どうぞ救って下さい。」と、困った時だけ「神頼み」し、助けてもらったら、後は好き勝手に自分で進む姿勢が、これに相当します。


 とかく私たちは気付かぬ内に、「神の家」に居ても、家長(イエス・キリスト)に対して、週の始め(日曜日)の数時間だけ、礼拝の時を過ごしても、あとの六日間の時を、神の臨在を意識しない(忘れた)、自分中心の「会話」に集中する、そんな家庭内別居の状態にあるのです。


 勿論、私たちには信仰があります。ただ信仰の求める土台の上に、「神の臨在が私の前にあり、神の御守りの中で導かれている!」など、常に神と自分の立ち位置を意識しているか否か、それが大事なポイントです。そうです!私たちは、常に神の「臨在」と「助け」、そして「守り」がある!ことを意識しましょう。そうすれば神の「平安」が、必ず私たちの人生全般を取り囲んでいることを、明確に確認できるため、自然と「感謝」の告白も為し得るのではないでしょうか。


 失敗だらけのアブラハムでしたが、彼は常に神の御前に座すための、「祭壇」を築き上げることで、主なる神ご自身を求め続けました。ベテルにおいては、神は明確な「言葉」を語りませんでしたが、新しい「神の家(御住まい)」というビジョンを、彼に対して示されたのです。


 さて、私たちは今回の奥義から、如何なる「導き」が示されているのでしょうか?それは、如何なる時にも主なる神は、私たちにお会いして下さるが故に、私たちはその霊的「出会い」の時を、絶対に逃す(忘れる)ことが無きよう、先ず神の御前に座して、霊的「祭壇」を築き、聖霊様が用意して下さる、「親しい交わり」の時を共に交わすのです。そして主なる神ご自身を求めれば求める程、神は必ず私たちに必要な霊的「道しるべ」、即ち歩むべき「方向性」を示して下さいます。


 あなたが、様々な主なる神との「出会い」を通して、豊かなる祝福の人生を歩み、今後の信仰の歩みにおいても、主なる神を最優先に求めるなど、霊的な「祭壇」を築き上げることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する