バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

正しい生き方(No.4)

                        ノアの捧げた生贄




その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。
ノアは主のために祭壇を築いた。そして全ての清い家畜と清い鳥の内から取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上に捧げた。

                                                                                   【創世記6章9節,8章20節】


ノアの生き方
 ノアの霊的資質は、実は彼の曽祖父に当たる、エノクから受け継いだものです。ノアは世間的には堅物、いわゆる頑固者でした。曲がったことは好まず、悪しきことには決して身を染めず、たとえ村八分にされても、正しいことを一人で全うする、そんな人物でした。


 私たちが学ぶべき、ノアの霊的生き様の第一のポイントは、悪しき時代の中にあっても、彼は如何なる「生き方」を貫いたのか?という点です。ご存知のように主なる神は、アダムとエバが園を出立する際に、約束の言葉をもって祝福しました。


 即ち「あなた方が踏み行く大地は、必ず多くの産物を産み出す祝福の地になる。それ故、その大地から得られた収穫の初物を、必ず私の前に捧げて、子羊と共に感謝の生贄として捧げなさい!そうすれば、如何なる地にあろうとも、私が共に居て、あなた方を豊かに祝福しよう!しかし怠れば、その地は必ず呪われたものとなる。これを決して忘れぬように!」と。


 彼らは、その教えを忠実に守り通しました。しかし、ノアの生きた時代に至りますと、その「教え」は忘れ去られ、めいめいが自分勝手に生きる、自己中心的な生き方に変貌しました。それ故に、神の領域である「天」と「地」は、回復できない程の、悪しき汚れた状態になり、全てに「悪」が蔓延りました。


 そのような時代の中にあっても、ノアは頑固一徹な生き方を貫きます。世間の人々から見ると彼の生き方は、「何なんだ、あついは!付き合いの悪い奴だ。」と映りました。しかし主なる神の御目には、「物凄く麗しく貴い人物!」に見える訳です。偽りだらけの暗黒の中にあって、唯一「真実の光」を放つ存在(宝石)、それがノアでした。


 そこである時、主なる神はノアに語られました。「ノアよ、もう(私の執り成しは)終わった!アダム(エバ)の霊的遺産を、受け継ぐことの出来る者は、あなた方家族だけである。私は天の領域、地の領域、人の領域の全てを一新するから、大きな箱舟を建造しなさい!私が設計図等を示し、建造に必要な資材等を用意する。急いで取りかかりなさい!」と。


 その後ノアとその家族は、箱舟建造に120年かけて取り組み、いよいよ大地は「洪水」に呑み込まれました。大地は一年間をかけて一新され、「大地」には生き物が、何も残らない状態に変り果てました。残っている生き物は、まさしく箱舟に居るノアの家族と、洪水前に収容された生き物だけでした。


 その状況を想像して下さい。彼らは生き残ったとは言え、「孤独」に近い状況です。収容した生き物が、箱舟内に何頭いたのか定かではありませんが、人類と呼べる存在は、僅か「8名」に過ぎないのです。「たったこれだけの生き物で、果たして地上を満たす程の、麗しい存在になれるだろうか?」などと、家族が様々に「不安」に駆られる中にあっても、ノアは頑固一徹「生き方」を変えなかったのです。


 そうです!ノアだけが邪悪な時代の中にあっても、「主よ、あなたが創造した全ての領域が、悪しき流れの中で汚されていることを、あなたはご存知ですね。どうか再び、あなたの聖なる御力によって、この大地がエデンの園の如くに、麗しい聖いものへと造り変えられますように!その為に私は、全身全霊をもって祈り続けます。」と、全き誠実な「生き方」を貫いたのです。


ノアの捧げた「生贄」
 大洪水を経て、水が完全に引いた後、彼らは再び大地に降りることになります。しかしその大地は、何も「生」が感じられない程、泥まみれの世界でした。「不安」だらけの様相を呈する家族を前にして、ノアは無言で黙々と、ある行動を開始しました。荒れた泥まみれの土の中から、適当な石の塊を見つけては、祭壇を築くべく積み上げました。そして、恐らく箱舟に居た期間に産まれた、一頭の子羊と一羽の若鳥を屠り、祭壇上に捧げました。これが私たちが学ぶべき、ノアの霊的生き様の第二のポイントです。


 地の領域、そして人の領域を、完全に一掃された主なる神に対して、ノアはこの時、如何なる「生贄」を捧げたのでしょうか?当然の如くに彼は、次世代の源となるであろう、子羊と若鳥の中から、一番上等の初物をもって、祭壇上に献げた訳です。この時の彼の心境は、息子たちのものとは、違った次元にありました。即ち「私たちが生き残ったことは、私たちだけが正しかったからではない!あくまで神の恵みが、私たちを通して、再び現されるためである。ならば私たちに出来る最大の献げ物は、私たち自身の命そのものである。故に身代わりとして、これらの初物を捧げることは、当たり前である!」と。


 ところで天と地、及び人の住む領域が、完全に一掃され、新しくされたことで、新しい天と地が創造された訳ではありません。むしろ以前より、地球の「時」のサイクルが、明確に区分けされることになります。その区分けの中で特に変化したことは、他の生物も含めて人の「寿命」が、以前より極端に短くなったことです。


 そのような新しい「時」のサイクルの中にあっても、ノアは以前にも増して、最愛の子羊を忠実に捧げ尽くすなど、神に対する全き従順な生き方を貫きました。彼にとって自分の「命」も、神からの預かり物という姿勢で、謙虚に「生贄」を献げました。そうです!ノアにとって「生贄」とは、最大の犠牲(贖い)を要する、特別な「礼拝(神との交わり)」だったからです。


 さて、今の悪しき時代の中にあって、神から見て本当に「正しい人」はいるのでしょうか?また私たちが、果たしてノアの如くに、忠実な生き方を模索しながら、神に対する真実の「生贄」を、真剣に捧げ尽くしているのでしょうか?もう一度、自分の献げる「生贄」について、深く吟味して下さい!


 どうかあなた(私たち)が、主なる神に対して、霊と真をもって礼拝する、真の礼拝者でありますように!天の領域及び地の領域に対して、あなたは霊的に執り成す務めがあります。あなたの真実の「祈り」を通して、主なる神が新しいことを、必ず興して下さることを信じて下さい。あなたの聖なる働きが、聖霊様の絶えざる取扱いにより、豊かに祝福され続けることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する