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命と心の健やかなる成長のために!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

正しい生き方(No.3)

                          死を常に背負う



エノクは六十五歳になった時、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。
                                                                                 【創世記5章21~24節】


死を背負う生き方
 今回の記事の主役はエノクです。彼に関することは、非常に記事として少ないため、彼が如何なる方法によって、神の御元に引き上げられたのか、全く想像できません。現代風の記事で表現するなら、「突然の失踪(ロスト)事件!」とでもなりましょう。彼の身に着けていたものさえ、何一つ残らない!と言う、非常にミステリ-な出来事でした。


 しかし、家族だけは知っていました。息子や娘たちは「あ、父ちゃんは遂に、この世を捨てて、念願の神の御元に旅立った!」、また妻は「そう言えば、あの人は常に口に賛美、何処にいても神に感謝しながら生きてたものね。」と、心の中で寂しさこそあれ、家長が今は「最高の場」に居ることを、全員で祝福しました。


 実はこの僅かな記事の中に、私たちが常に知る(学ぶ)べき、非常に重要な奥義が示されています。結論から申し上げると、彼はアベル以上に、常に「死」を意識していた!ことです。だからと言って、それは「すぐに死のう(死にたい!」と考えている次元ではありません。むしろ「いつ死んでも構わない程、生きてることを常に感謝し、真剣に生きることを模索していた!」ということです。


神の辞令
 先ず、私たちが知るべき第一のポイント、それは人生の絶頂期に、彼は「この世」の生を終えたことです。今の寿命から計算して、だいたい40歳頃のことです。つまり人生真っ盛りの、「これから・・・・」という時です。果たして私たちの場合は、この突然の出来事(神の辞令)に対して、素直に従うことが出来るでしょうか?即ち「もう宜しい!天国に帰って来なさい。」という辞令。


 その時私たちは、殆どの者が「え?これからじゃないですか!まだ後(もっと老齢になってから)でも良いのではないですか?」と、申し訳なさそうに辞退することでしょう。余談になりますが、私たちは老齢期に近づき、体(体力)がえらくなりますと、「もう死にたい!」と愚痴をこぼす程の、困難・不自由さを覚えます。しかし、この言葉は良い意味での、「死」を意識したものではありません。


 ところがエノクの場合は、口では決して「死にたい!」とは言わないのですが、「死」を超える次元にある、主なる神との「生活(霊としての人生)」を、こよなく求める祈りと賛美の言葉が、絶えず唇からほとばしり出ました。彼は今回の辞令を、突然に受け取った訳ではなく、まるで今か今かと待ち望んでいたことが伺えます。


 「エノク」とは、従うことを意味する名です。つまり彼は、名としても純粋に、事に順ずることの出来る、柔軟性を持つ者でした。この時代の成人男性の平均寿命が、だいたい九百歳であるのに対し、エノクの場合は三百六十五歳(今の四十歳)で、突然に世を去りました。そうです!人生の一番絶頂期にある時、神から「生命(生きること)」に、突然ストップを命じられた場合、私たちは簡単に従うことは出来ません。「え!どうして?これからじゃないですか!」と文句が出るなど。


神と共に歩む
 エノクは文句どころか、何一つ「疑い」を持たず、どちらかと言えば「お待ちしていました!」と、素直に聞き従いました。彼は「世」を去る時、果たして何を考えていたのか?これが第二の奥義となります。彼の「生き方」の大半を占めていたもの、それは「(初子が生まれた後)三百年間神と共に歩み・・・・」(22節)と、具体的数字が記されている点にあります。


 彼の「人生」の殆どが、三百年間という長き年月にも関わらず、神と共に歩むことにおいて、何一つ変わりませんでした。つまり、これ以外の関心事は、彼にとって無価値なものであり、神以外のものに心・霊が奪われることが無かったことを、三百年間という数字が物語っている訳です。


 ところで「神と共に歩む」とは、具体的に如何なる行動を指すのでしょうか?それは直訳すれば「神を親友(若しくは伴侶)とする程、より近く、より親しく、より人生を共有する生き方、或いは生活を共にする(living fellowship with God)」となります。


 神は「見えざる方」であるのに、彼にとっては「見えるご主人様」として仕え、傍に居るつもりで人格者なる方に、言葉を語り続け、またある時は「祈り」の中で、語りかけて下さる「お言葉」に耳を傾けるなど、親密な関係が築き上げられていたのです。


 彼は息子や孫に対して、恐らく次のようにアドバイスしていたことでしょう。「主なる神は、求める者に必ず答えて下さり、そして報いて下さる。何よりも素晴らしいことは、私たちを死ではなく、生きた生贄として扱い、絶えず恵みを施して下さる。このことさえ覚えていれば、如何なる人生も乗り越えられる。主なる神が、常に私たちと共に居て下さることを、お前たちが知れば知る程、素晴らしい神の遺産を受け継ぐことが出来る!」と。


 そうです!彼は自分の「人生」の、全ての場面において、自分が「生きた生贄」になることを求めました。即ち、主なる神が自分の「命」を、いつ取られたとしても、正しい生き方を全うするなど、彼は終わり無き飢え渇きをもって、常に生きていたのです。


 主なる神は求める者に対して、惜しみなく豊かなものを、天上から降り注いで下さいます。エノクの油注ぎは、あなたの激しい、飢え渇きの「祈り」から始まります!神と共に歩むことは、上より無代価で与えられる霊的特権です。


 そうです!聖霊様は、あなたをエノク同様に、天の次元に招待しておられます。どうぞあなたが、今の激動の時代の中にあっても、三百六十五日間絶えず、エノク同様の霊的感性が備えられますように。そして日もすがら夜もすがら、主なる神との「親しい交わり」の中で、麗しいキリストの花嫁として、美しく仕立てられて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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