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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

信仰の完成(No.29)

                    真心からの悔い改め




・・・・まことにあなたは恵みに満ち、憐み深い神。今この時、私たちの神よ。偉大にして力強く畏れるべき神よ。忠実に契約を守られる神よ。・・・・あなたの民の皆が被った、その苦難の全てを取るに足らないことと見なさないで下さい。この全ては起こるべくして起こったのです。私たちはあなたに背いてしまいました。・・・・ご覧下さい。今日私たちは奴隷にされています。・・・・私たち自身も、家畜も、この支配者たちの意のままに、あしらわれているのです。私たちは大いなる苦境の中にあるのです。
                                                                                     【ネヘミヤ記9章31~37節】


最後に至りて・・・・
 「日本」の置かれた今の状況を、私たちは正しく見据え、真剣に祈る必要があります。特に、この国のリバイバルを祈り求めるのであれば、この国の「天」と「地」、そして「人」という、この三つの領域に対して、真剣に執り成すことが重要となります。


 終りの時には、更に「天」が激しく動き、「地」が立ってられない程にぐらつき始め、そしてその「地」に暮らす「人」も、様々に揺り動かされます。まさしく今回の祭司たちの祈りの叫び、「私たちは大いなる苦境の中にあります!」通りに、事が進行しているのではないでしょうか!


 祭司たちが最後に表明した、「悔い改め」の言葉(祈り)の中に、実は信仰上の重要な「希望」が、薄っすらと(微かに)見えます。それまでは、度々「過ち」を犯しては、「御免なさい。だから赦して(助けて)下さい!」と、幼児の如くに祈るのに対し、今回は最終段階に至って、ようやく神の「憐み」を求め、へり下って「悔い改め」の叫びを上げるなど、信仰的に回復の兆しが見えます。


六つの悔い改め(表明)
 彼らが表明した「悔い改め」は、具体的に六つの内容になります。自分たちが、如何なる「罪」を犯したとしても、①主なる神ご自身は、「憐み」と「恵み」に満ちた(必ず注いで下さる)方である(31節)!②主なる神は「偉大」にして、測り知れない程の「大きな次元」にある(32節)!③主なる神は「畏れ」多い程、「力」に満ちた方である(32節)!この神の「御力」は、彼らに対して「怒り」を現すものではなく、むしろ数々の「敵」の攻撃を、たちどころに破壊する、そんな奇跡の現れでした。


 確かに私たちは、彼ら程の霊的「浮気(偶像崇拝)」を為していません。ところが私たちは、「仕方ないじゃない!」などの、「不平」や「屁理屈」をもって、主なる神に対して「真摯(偽り無き誠実さ)」ではない態度(表明)を、時々為してしまう存在です。


 にも関わらず、私たちの霊的花婿(イエス・キリスト)は、むしろ「憐み」と「恵み」を、いつものように注いで下さり、測り知れない「大きな愛」をもって赦し、また畏れ多い程の「御力(御翼の覆い)」の中に、私たちを守り導いて下さいます。ここに私たちが悔い改める際の、信仰上の基本(恵みの方向性)が示されています。主なる神は、私たちが如何なる状態にあったとしても、必ず「永遠の赦し」を与えて下さいます。


 そして④自分たちが犯してきた「愚かな罪」故に、今までどれ程の「苦しみ」を招いたか!つまり自分の「今の状態」を、正しく捉えて告白(表明)すること(32節)。そして⑤その「苦難」の全てを、思い起こして下さるよう、主なる神に表明すること(32節)です。


 全てのことには必ず「原因」があり、そしてまた「結果」が伴います。つまり、彼らが被った「苦難」の原因は、主なる神の「恵み」と「憐み」を忘れ、自分勝手に歩み始めたことです。そして最後に表明したことが、⑥自分たちは(今も尚)最大の苦境にある!という、最後の「呻き」でした(37節)。この最後の表明は、ネヘミヤが神に祈り始めた、最初の「呻き」と同種のものです。


全能の神の「身許」に隠れる
 しかし今回彼らは、決して「(だから)助けて下さい!」とは訴えていません。むしろ「あなたは憐み深いお方ですから、必ず私たちのことを思い起して下さり、御旨のままに為して下さいます!」という、無言の「信仰告白」をもって、この六つの「表明」の締めくくりとしています。即ち、彼らは何も言わずとも、霊の言葉で「あなたは敵から守る堅固な砦、全ての災いを防御する御翼の覆い(隠れ家)です!」と表明したのです。


 さて、今日の激動下にある「日本」にあって、私たちキリスト者は、如何なる信仰「表明」を、全能の神に対して訴える(呻く)べきでしょうか?それは「隠れ家なる主イエス・キリストに、全ての問題の解決がある!全ての病い(悩み、苦しみ、痛みなど)の回復がある!」という宣言です。


いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人よ。主に申し上げよ。「私の避け所、砦。私の神、依り頼む方」と。神はあなたを救い出して下さる。・・・・神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばって下さる。神のまことは大盾、小盾。・・・・あなたには苦難もふりかかることが無く、天幕には疫病も触れることが無い。・・・・「彼は私を慕う者だから、彼を災いから逃れさせよう。私の名を知る者だから、彼を高く上げよう。彼が私を呼び求める時、彼に答え、苦難の襲う時、彼と共にいて助け、彼に名誉を与えよう。生涯、彼を満ち足らせ、私の救いを彼に見せよう。」
                                                                                                              【詩篇91篇】


 この御言葉に、私たちの信仰上の「希望」が示されています。有名な格言の一つに「足るを知れ!」という指針があります。与えられたもので十分に満足し、それを感謝することが何よりも大事である!ことを、教え示していますが、仮に「足ること」を無視しますと、自分の欲から生じる「災い」等によって、返って「苦難」を被ることになります。


 私たちがどうであれ、主なる神の「恵み」と「憐み」は変わりません。それ故、私たちが注意すべきことは、私たちが必要とするもの、聖霊様が常に「手取り」「足取り」の働きをもって、必ず送り届けて下さいます。その時に、このことを正しく捉える「霊の眼」、正しく聞く「霊の耳」、正しく掴む「霊の手」、また謙虚に歩んで行く「霊の足」などを、あたかも自分の肉の力(努力)で得ている!と錯覚しながら、我がまま(勝手気まま)に歩む者は、いつか「敵の手」により滅ぼされることになります。


 主なる神の御前に出ることは、私たちが正しいから出られる、また「謝罪」するために出ることでは、決してありません!私たちが如何なる状態にあっても、神は私たちを招いて下さり、「救いの砦」「隠れ家」「御翼の覆い」の元に来る者を、喜んで迎え入れて下さるのです。彼が「私を慕う者」、また本当に「知ることを求める者」だから、全ての「苦難」から助け出して、高き次元へと導いて下さるのです。


 真の「隠れ家」なる、主イエス・キリストの身許に、あなたが喜んで入って行く時に、主なる神は「御翼の覆い」をもって、絶えず守り導いて下さいます。このことを感謝しながら、あなたが聖霊様の取扱いの中で、日々前進して行くことが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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