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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.32)

                        祭司の贖罪の献げ物




油注がれた祭司が罪を犯したために、責めが民に及んだ場合には、自分の犯した罪のために、贖罪の献げ物として無傷の若い雄牛を主に捧げる。先ず牛を臨在の幕屋の入り口に引いて行き、主の御前に立ち、その頭に手を置き、主の御前で牛を屠る。油注がれた祭司は牛の血を取って臨在の幕屋に携えて入り、指を血に浸して、聖なる垂れ幕の前で主の御前に七度血を振りまく。次に、血を・・・・祭壇の四隅の角に塗る。・・・・雄牛の皮、肉、頭、四肢、内臓、胃の中身は、ことごとく宿営の外の清い場所である焼却場に運び出し、燃える薪の上で焼き捨てる。これは焼却場で焼き捨てられねばならない。
                                                                                                            【レビ記4章3~12節】


人の「罪」は何によって贖われるのか?
 ご存知のように、私たちは「アダム(エバ)」の子孫ですから、いとも簡単に「罪」を犯し易い存在です。その場合に父なる神は、私たちが誤って犯した、数え切れない「罪」の一つ一つにまで、罰則規定を事細かく設けるなどの、「刑罰(ムチ)」を科す方では決してありません。


 人の犯す「罪」は、何によって贖われるのか?この大いなる「問い」を、私たちは常に考え(意識し)ながら生きるべきです!特に私たちが、真の創造主である父なる神との、「聖なる関係」を違反(逸脱)した場合に、その「罪」は何によって贖われるべきでしょうか?


 古代バビロニアにおいては、ハムラビ法典の「掟」により、人の「命」は人の「命」によって償うべきである!という、合理的かつ残酷な「刑罰」が存在しました。しかし、私たちの犯す大小の「罪」は、金額を伴う数字や物理的な値などの、完全なる賠償額を算出できるものではありません。ましてや、父なる神に対する「罪」の償いに関しては、私たちには到底支払うことの出来ない、数値になるのではないでしょうか!


 しかし私たちの犯す「罪」は、植物の「種」の如くに、いつか必ず刈り取るものであることも事実です。それ故父なる神は、このような弱き私たち「人」のために、一つ一つの「罪」を完全に贖うべく、私たちが「贖罪」の献げ物を捧げることで、父なる神の「贖い(救い)」にあずかる、その「道(手順)」を示して下さいました。


 だからと言って、私たちは「罪」を犯す度に、「贖罪」の献げ物を捧げていれば、それで良い!という訳ではなく、「贖罪」の献げ物を捧げることを通して、実は私たちの側に、聖霊様を通して学ばなければならない、霊的ステップがあることを、私たちは今回の規定から教えられる必要があります。即ち、私たちは如何に「罪」に対して無力な者、そして弱き者であったとしても、「生贄(献げ物)」から流れ出る「聖なる血潮」を、祭壇に霊的に捧げる(振りまく、塗る、注ぐ)ことで初めて、私たちの「罪」の全てが贖われること、それと同時に私たちの側も、あるパーツを焼き捨てること!この二つの「手順」を踏む必要があります。


祭司の「贖罪」の手順
 今回の規定には、「贖罪」の献げ物に関する、一番重要となる「身分(役職)の者」が描かれています。それは「祭司」です。ご存知のように、アロンに代表される「祭司職」とは、聖なる「祭儀」を担当する者であり、主なる神の「ご命令(神託)」を、イスラエルの民に忠実に告げ知らせることで、イスラエルの民が「正しい道」を歩むことが出来るよう、霊的に指導することを務めとする者です。そのような聖なる務めに任じられた祭司が、「罪」を犯した場合には、どうしたらよいのか?この点について神が定めた方法、それが今回の「贖罪」の献げ物です。


 今回の規定には、祭司が犯し易い「罪」の具体的内容については、何も記されていません。但し彼らも一人の人間として、何らかの「弱さ」があります。例えば、講壇からメッセージを語る「牧師」や「伝道者」が、「不信仰」や「不品行」などの、霊的汚れに染まっているにも関わらず、偽善(人間)的にメッセージを語ることは可能です。


 ところが、主なる神の「御目」には偽ったもの、即ち「罪」の種として映り、最終的には信者の「霊性」をも汚しかねない、忌み嫌うべきものです!それ故に、主なる神は彼らばかりでなく、今に生きる私たちキリスト者(聖霊の油注ぎを受けた者)が、聖なる務めを為す中で、誤って「罪」を犯した場合において、「贖罪」の献げ物を捧げるという、一つの「救いの道(方法)」を示しておられるのです。


 今回の「贖罪」の献げ物において、重要となる霊的キーワード、それは「主の御前に七度血を振りまく」という文言の中の、「七度」という数字です。ご存知のように、この「七度」という数字が、聖書の中で最初に登場するストーリー、それはカインが弟(アベル)を殺した出来事に描かれています。カインは、不本意からアベルを殺した結果、即ち弟の「血」を大地に流した、その「命」の代償として、カイン本人のその後の「人生」が、呪われた人生を負うことを覚悟しました。


 すると主なる神は、「カインを殺す者は、誰であれ七倍の復讐を受けるであろう。」(創世記4章15節)という御言葉をもって、彼の人生を代わりに請け負うことを約束しました。この「七倍の復讐」とは、詳訳すると「七つの命をもって(七回、その人の生命を殺してでも)、あなたを贖う(守る)」という意味です。この父なる神の「贖い」の約束の成就の故に、今回の御言葉が成立するのです。


 そうです!私たちの「罪」は、主イエス・キリストの十字架による「贖い」の御業により、七度の七十倍「罪」を犯したとしても、子羊(イエス・キリスト)の貴い「血潮」を受け取るだけで、無条件に赦されるのです。それ故に私たちが、イエス・キリストの十字架の御元に行く時に、「主よ、私はカインの如き罪深き者です。罪に汚れた私の全てに、あなたの貴い血潮を注ぎます!七回とは言わず何回でも、あなたの血潮を仰ぎ求めます!」という、聖なる祈り(礼拝)へと召し出されていくことが、何よりも重要となります。


聖なる「贖い」の処理場
 11節には、聖なる焼却場に「捨て去るべきもの」が記述されていますが、これは私たちの「霊」と「肉」、そして「魂」の三領域に働く悪しきもの、つまり外側に働く「罪」と、内側に働く「罪」の全てを、主イエス・キリストの「十字架」のフィールドに携え行き、聖霊様の「聖なる炎」をもって、完全に焼却して戴くことです。そしてこれは、私たちが毎日為すべき聖なる務めです。これを怠りますと、霊的な「傲慢」と、霊的「姦淫」などの罪を、自分の「霊」の中に呼び込むことにもなります。


 カインは、自分の血肉の弟(アベル)を殺すという、「大罪」を犯した者でしたが、主なる神はカインを決して見放すこと無く、逆にカインの「罪」を贖うべく、一つの「しるし(救いの証拠)」を与えました。私たちも霊的には、アダム(エバ)の子孫ですから、霊の初穂(イエス・キリスト)の、「贖い」のしるしを与えられています。


 しかしそれと同時に、イエス・キリストの「贖い」に対して、日々感謝することを忘れてしまいますと、直ちにカインと同様の、「大罪」を犯す者に成り得る、このことも忘れてはなりません!それ故私たちキリスト者は、自分の内側にある「罪」、そして外側に働く「罪」の全てを、救い主イエス・キリストの「贖い」の場、即ち十字架上に焼却処分して戴きましょう!そうすれば、父なる神は「永遠の命」を受け継ぐ者として、私たちを祝福して下さいます。


 父なる神の「贖い」の御業は、御子イエス・キリストの、たった一度の「はん祭」により完成(成就)しました!私たちは、このことを信じて「主イエス様、私は自分の罪の全てを、あなたの御前に持って参りました。どうぞこの弱き私を、あなたの貴い血潮をもって、更に贖って下さいますように!」と十字架の御元で、へり下って祈ることの出来る者でありますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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