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命と心の健やかなる成長のために!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.33)

                   エクレシアの贖いの献げ物




イスラエルの共同体全体が過ちを犯した場合、そのことが会衆の目に顕わにならなくても、禁じられている主の戒めを一つでも破って責めを負い、その違反の罪に気付いたときは、会衆は若い雄牛を贖罪の献げ物として捧げ、それを臨在の幕屋の前に引いて行く。共同体の長老たちは主の御前に立って、牛の頭に手を置き、主の御前でその牛を屠る。油注がれた祭司は牛の血を取って、臨在の幕屋に携えて入り、指を血に浸し、垂れ幕の前で主の御前に七度血を振りまく。次に、血を・・・・祭壇の四隅の角に塗り、・・・・雄牛の残骸は宿営の外に運び出して、先の祭司の雄牛の場合と同じ方法で焼却する。これが会衆の贖罪の献げ物である。
                                                                                                          【レビ記4章13~21節】


エクレシアの犯す「過ち(罪)」
 キリストの「み体」である、私たちキリスト者の共同体、つまり「エクレシア」が、如何なる「過ち」を犯す者であるかを、私たちは正しく知る必要があります。祭司が、イスラエルの民全体を導くという、大いなる舵取り(船頭)の役を担っているのに対し、今回の「エクレシア」の場合は、「船」全体の役割を担っているクルー(船員)、即ち霊的には、私たちキリスト者一人一人のことを指しています。


 そこで、私たちキリスト者の共同体「エクレシア」が、何らかの「罪」を誤って犯した場合にも、荒れ狂う大波の中で沈みかけたペテロや、全滅の危機から贖い出されたノアの家族の如くに、必ずイエス・キリストの「贖い」が、私たちキリスト者の共同体「エクレシア」にも、神の「恵み」を通して適用されることを、今回の記述から学ぶ必要があります。


 今回の「エクレシア」の罪は、故意に犯す罪のことではなく、誤って犯した罪のことで、具体的な事例は幾通りも考えられますので、ここでは申し上げられませんが、一言で申し上げるならば、エクレシアが犯し易い「過ち」、即ち霊的には正しい方向性からの逸脱を意味します。黙示録を記述したヨハネによれば、「エクレシア」の犯し易い罪の性質を、先ずエペソ教会の中に見い出すことが出来ます。エペソ教会の最大の「過ち(霊的に誤った方向性に導かれること)」、それはイエス・キリストの始めの愛から離れてしまうことです。


 つまり、この世的な表現を用いるならば、花嫁(エクレシア)が花婿(イエス・キリスト)の愛から離れて、他のものに心魅かれるなど、霊的な「浮気」のことです。イエス・キリストのことを最優先に思い、イエス・キリストの「御心」に従って生きるべきところを、私たちはつい「別のもの」を頼みとし、自分の「意志」をその中に注ぐ、これが私たちキリスト者全体が、霊的に犯し易い「罪」です。


 続いてヨハネは、第二の「罪」をペルガモン教会とティアティラ教会の中に見出しています。それは異なる教えや、邪教に惑わされる(心奪われる)ことです。主なる神は、イスラエルの民全体が「十戒」などの、様々な律法(神の教え)に従って生きるように勧めていますが、だからと言って十戒が記された「石板」そのものをを尊び、そして崇めるようには命じていません。ところが「信者」というものは、次第に「教え」の中身よりも、「教え」そのものや、「教え」を説くリーダーたちに心奪われて、主なる神よりも「説教者」、「預言者」や「教師」たちを尊び、遂には彼らを偶像化して崇めるという、誤った方向性に傾く可能性があるのではないでしょうか。


 そして第三の「罪」は、サルディス教会の中に見られるもので、イエス・キリストの「贖い」という、聖なる衣を霊的に汚すことです。具体的には、唇でイエス・キリストを「主(救い主)」と呼んでいても、実際の「行い」においては、異邦人(この世の人々)同様に、世的な快楽を追求しながら生きることです。


 イエス・キリストの「贖い」の御業を、いつも信頼して生きる者は、この「聖なる衣」が、如何に貴いものであるかを知っているため、常に十字架の御前にひれ伏し、イエス・キリストの「救い(贖い)」の中に、自分の「真の幸せ」を見出しながら生きようとします。ところが私たちは、いつしかこの「聖なる衣」を片隅に置いて、例えば自分の「血肉の努力」によっても、自分が救われている(神から用いられている)と錯覚する時、それはサルディス教会の信者の如くに、霊的に汚れた状態へと変質していることになります。


 ヨハネが最後に、警告を送ったラオディキヤ教会の「罪」、これは私たちの霊的品性を、いとも簡単に汚し易いものです。つまり「熱く」も「冷たく」も無い霊的状態のことで、ぬるま湯の中に浸かったかの如き、霊的怠惰のことを指しています。主なる神が私たちのことを、常に熱情の愛をもって導く限り、聖霊様は私たちが、更に激しく「花婿(イエス・キリスト)」を、熱情の愛をもってお迎えするよう取扱われるのです。


霊的な「灰」をかぶる
 そこで私たちが、霊的な「過ち」を犯す場合に、その「過ち」を贖うべく、今回の規定が示されています。今回示されている、父なる神の「贖い」の方法は、祭司の「贖い」の時と同様ですが、「違い」が一点あります。それは祭司の「過失(過ち)」の場合が、祭司自らが「生贄」を祭壇の前で屠り、その後に捧げるのに対して、今回のイスラエルの民、即ち共同体全体の「過ち」の場合は、イスラエルの民の代表である長老が、民に代わって「生贄」を祭壇の前で屠るという方法を採ります。


 ヨハネに啓示された聖霊様の「勧告」は、例外無く全てのエクレシアに対して発せられているものである!ことを、私たちは謙虚に受け留め、礼拝を捧げる際に必ず、自分が同様の「過ち(罪)」を犯す者である故に、イエス・キリストの十字架の血潮を、常に仰ぎ求めることが重要です!そういう意味で、「代表者(牧師、長老、他の教役者)」が率先して、神の御前で悔い改めることが求められるのです!つまり、今回の規定に示されている如くに、私たちキリストの共同体(エクレシア)は、全員で霊的な「灰」をかぶるという行動(姿勢)を、父なる神に対して表明する時に、主なる神が大いなる慰めをもって、「贖い」の恵みを再び注いで下さいます。


 それ故に私たちは、主なる神に「礼拝」を捧げる場合に、自分の霊的「過ち」が無いかを、聖霊様によって点検して戴く必要があります。即ち「自分たちが始めの愛から、果たして離れていないだろうか?」、「自分たちが偏った教えに、いつしか惑わされていいないだろうか?」、「自分の判断を頼みとしながら、神の御言葉を選別(選り好み)していないだろうか?」、「聖なる衣を疎かにしていないだろうか?」、「自分は熱心だと思っていながら、本当は自分の都合の悪い時にのみ、父なる神を熱心に求めていないだろうか?」など、このような霊的点検という取扱いが、聖霊様を通して常に為されていくのであれば、私たちキリストの「み体」、つまりエクレシア全体は、更なる聖霊の「油注ぎ」を受け、賢い五人の乙女の如くに、イエス・キリストの花嫁として、霊的にリバイブされていくのです。


 霊的な「灰」をかぶること、これは私たちキリストの「家族(共同体)」における、霊的な長子(イエス・キリスト)を屠る(身代わりとして捧げる)ことを指しています。聖霊様は、私たちに対して常に命じます。「あなた方の唯一の贖いであるイエス・キリストを、自由に屠りなさい!そしてその貴い血潮を、エクレシアの民全てに注ぎなさい!」と。贖いの子羊(イエス・キリスト)の流される血潮は、豊かに「エクレシア」全体を覆い尽くし、最終的には「この世」の人々の元へと流れ、主なる神と人との「和解」と「赦し」が回復されるなど、大いなる異邦人の「救い」へとつながるものです!


 私たちのエクレシア全体の中に、霊的な「過ち」が無いかを、いつも聖霊様を通して示され、へり下ったキリストの花嫁として、益々イエス・キリストに愛されながら、熱情の愛をもって花婿を愛し、かつ仕える者であり続けることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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