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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.29)

                              和解の献げ物




献げ物を和解の献げ物とする時は、牛であれば、雄であれ雌であれ、無傷の牛を主に捧げる。
                                                                                                                   【レビ記3章1節】


「全焼」の献げ物と、他の献げ物の関連性
 私たちにとって、「全焼」の献げ物や「感謝」の献げ物、そして今回の「和解」の献げ物、そして他の二つの献げ物は、何故礼拝において必要なのでしょうか?レビ記1章の規定では、「全焼」の献げ物が、私たちの「霊」と「真」による真の礼拝を指し、私たちはこれこそが、一番重要な礼拝のプロセスであると、そして「全焼祭」さえ行っていれば、他の四つの献げ物は、さほど重要ではないと錯覚しがちです。


 ところが、「全焼祭」と他の四つの献げ物には、非常に密接な関係(連動性)があります。こけれを先ず覚えておいて下さい。イメージ的に捉えるなら、「全焼祭」は大樹の大幹を果たします。それに対して大幹から生じる、四つの大枝の役割を果たすのが、「感謝」「和解」「贖罪」「賠償」の献げ物となります。ご存知のように樹々の「幹」は、「枝」が無ければ生きることが出来ません(勿論その逆もしかり)。つまり切っても切れない程の密接な関わり方が、「全焼」の献げ物と、他の四つの献げ物にある訳です。


 「全焼祭」が私たちにとって、一番重要となる礼拝の根幹になりますが、枝的な役割を果たす、「感謝」「和解」「贖罪」「賠償」も、私たちの日々の信仰生活において、節目ごとに(毎日必ず為す行為ではない)行うものであり、主なる神に対する、ありのままの表明を、その都度行う(捧げる)ことが要求されます。具体的に捧げる行為として、私たちの「罪」や「咎」も、そして肉的な「業」などがある故に、「全焼」の献げ物だけでは、勝利ある信仰生活が自動的に送れる訳ではなく、その都度私たちの「罪」の全てを、主イエス・キリストの贖いの血潮により、洗い聖めて戴くことが必要です。そしてそのことに対する、私たちの側からのシンプルな表明を、霊的にプラスする(同時に捧げる)ことが、私たちの信仰の成長(幹と枝が同時に育つ)に欠かせません。


「和解」の献げ物の規定
 特に「和解」の献げ物に関しては、「全焼」の献げ物と同様に、毎日捧げることが求められる程、私たちの「霊」の中には、主なる神に対して不従順な(反逆している)、霊的部分(パーツ)が常に生じているのです!ある面で献げ物とは、私たちの「祈り(交わり)」と「信仰告白」を指します。ですから「真の礼拝」という、至聖所における「全焼祭」には、この「和解」の献げ物を携え、同時に捧げ尽くすことで初めて、「不平(不信仰の言葉)」から「感謝」、そして「呟き(嘆き)」から「喜び」という「収穫の束」を、祭壇上で燃やし得るのです。


 「和解」の献げ物に関しては、如何なる動物も無条件で(性別や年齢を問わず)捧げてもよいのですが、一つだけ重要な規定があり、それは必ず「無傷である!」という点です。え!無傷の生物は、果たして存在するのですか?などと、私たちは思いがちです。今日の畜産技術からすれば、無菌状態の家畜を飼育することは可能ですが、当時の飼育レベルでは、出生してから成長するまでに、全く傷を負わなかった家畜は、「ゼロ」に近いと思われます。


 今回主なる神が定められた「無傷」とは、私たちが思い浮かべる、「外傷」のことではありません。それは正しい意味としては、「欠陥の無い状態」を表す言葉であり、現代訳で表現するならば「健常動物」、即ち障害無き動物のことです。要するに遺伝的にも問題なく、毛並みが良く、如何なる病気を患っていない、優良動物を指します。


 では、私たちの霊的な健康状態を、自分自身で判断した場合に、果たして「いつも欠陥無き、健全な状態を保っている」とは、とても表明できない程、霊的に不安定な状態にあるのではないでしょうか?そして旧約の世界に、自分を当てはめるとしたら、「とてもじゃありませんが、私は不失格です!和解の献げ物には、とても成り得ません!」と告白できるレベルにあります。


 ところが覚えて下さい!私たちは、「新約」の時代に生きるキリスト者、即ち十字架上のイエス・キリストという、「贖いの子羊」の犠牲により、新しく創造された神のもの、聖別されたものとして生きているのです。即ちイエス・キリストの流された、一度限りの子羊の貴い血潮により、私たちは既に聖別されたもの、神の御目には欠陥無き、健全な(汚れの無い)生贄として映る程、麗しい状態として受け入れられる、生きた聖なる供え物なのです!


 そういう意味で、父なる神が定める「欠陥のある状態」とは、私たちが三次元的に判断するレベルのことではなく、サタンがもたらした「罪」故に生じた、「私」と「父なる神」との、間(交わり)を妨げるものの総称のことです。即ち「罪」が産み出すものが必ずあり、それを聖書では「茨」や「おどろ」という、植物の名称をもって喩えています。山林の中を、長時間歩いたことのある方はご存知のように、「茨」や「おどろ」は、他の雑木や雑草と比較して、茎や葉が異常な程に硬く、しかも茎と葉の全体に、必ず頑丈な「棘(とげ)」を有しています。


 このような有様から、霊的な「頑なさ」を象徴するものとして、「茨」や「おどろ」が使用されているのでしょう。彼らは、他の木々を滅ぼすために、如何なる抵抗(成長)をも遮断すべく、自らの枝を張り巡らして、その「木」を枯らします。実は、私たちの「霊」の世界においても、本来私たちは新約の「恵み」により、聖別された者であるのですが、「罪」故に生じた霊的頑なさが、「霊」の中にはびこり始めますと、必ず「角(霊的な棘)」が生えて来るのです。これを忘れてはなりません!


神との「和解」に入る
 「和解する」こと、これは麗しい行為です。「和解」の後には、必ず互いに赦し合い、いたわり合い、受け入れ合いがあることで、「平和」と「心の癒し」という霊的な実が生じるからです。覚えて戴きたいことは、父なる神が「無傷のもの」と規定される場合、これは単なる人間関係上の、「茨」と「おどろ」を指しているのではなく、父なる神との関係において、如何なるものが「妨げ」となっているのかを、聖霊様の啓示を通して確実に見せて戴くことが、欠陥の無い生贄の第一条件(第一のフロセス)であることです。つまり私たちは、神との「和解」が最優先的に成立していなければ、「自分」との和解も、「他者」との和解も成立し得ません。私たちはこの点を、いつも「霊」に刻み付けておくべきです。


 「罪」を犯した第一人者(罪の祖先)である「アダム(エバ)」が、エデンの園から追放される時、父なる神は決して「懲らしめ(刑罰)」などを、彼らに与えた訳ではありません。それはまるで、学校の卒業式における光景と同様に、一種の送別の儀の如きものでした。父なる神は「罪」を犯した彼らのために、わざわざ「無傷の子羊」を屠り、その聖なる毛皮をもって、彼らにフィットする「衣服」を製作し、そして着せて下さいました。


 恩師(父なる神)が、生徒(アダムとエバ)の巣立ちの前に、祝いの「スーツ(子羊の聖なる衣)」を、直々に新調し着せて下さる時、その心境は「我が愛する教え子たちよ!どんなことがあっても、私のあなた達に対する愛を忘れてはならないぞ。ここ(エデンの園)で学んだことを生かして、世の中にあって大きく羽ばたいておくれ!そして私が、いつもあなた達の心の中に居ることを、このスーツを見る度に覚えておくように!」と涙ながらに訴え、送り出す時の気持ちに似通っています。


 そうです!このように素晴らしい、父なる神との「和解の関係(親しい交わり)」が、いつも私たちの前にも用意されているのです。余談になりますが、「和解」という漢字(文字)の中の「解」とは、霊的なイメージとして、一匹の「牛」を「刀」で屠ることによって、「角」が無くなること、このように私は解釈します。即ち、一匹の無傷の生贄(イエス・キリスト)の、貴い贖いの御業があるが故に、それは「角」無き聖なるもの(私たち)として、主なる神は100%受け入れて下さる、つまり父なる神との「和解」が、イエス・キリストによって完成されているのです!


 父なる神との「和解」に至る、「真の礼拝(親しい交わり)」の時が、あなたの日毎の信仰の歩みの中に、聖霊様を通して豊かに導かれ、如何なる状態の中にあっても「無傷のあなた」が、イエス・キリストの「贖い」の血潮を注がれ(受け取り)、完全に捧げられることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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