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命と心の健やかなる成長のために!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.28)

                 穀物の献げ物-四つの規定-




それらのものは、初物の献げ物として主に捧げてもよいが、宥めの香りとして祭壇に捧げてはならない。穀物の献げ物には全て塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物には全て塩をかけて捧げよ。初穂の献げ物を主に捧げる場合は、麦の初穂を火で炒って挽き割りにしたものを初穂の献げ物として捧げよ。それにオリーブ油を注ぎ、乳香を加える。これが穀物の献げ物である。祭司はオリーブ油のかかった挽き割りの一部と乳香全部を、しるしとして燃やして煙にする。これが燃やして主に捧げる物である。
                                                                                                         【レビ記2章12~16節】


神が求める「感謝」のしるし
 「全焼祭」が、私たちが霊と真をもって捧げる、「真の礼拝」という行為(姿勢)を表すのに対し、穀物の献げ物を捧げる「穀物祭」は、神に対する「感謝」のしるしです。今回の規定は、この穀物の献げ物を捧げる際に、私たちが注意しなければならない、基本的な「霊的心構え」について記述されています。


 私たちが、「感謝」のしるしを表明する時には、父なる神の大いなる「恵み」と、聖霊様による「導き(取扱い)」があるからこそ、初めて捧げ得るものであること、そしてその捧げられる過程で、たとえ私たちの側から、実り良きものを余り捧げられなくても、父なる神は私たちの献げ物を、十分に満足して受け留めて下さる、即ち「私たち」自身の有様(態度)そのものを捧げること、これこそが神が要求する献げ物である、この二つの重要ポイントを、私たちは基本的「心構え」として、いつも知っておくべきです。


 一般的に収穫の時期である「秋」は、農家の方(ファーマー)にとって、非常にハラハラするひと時です。何故なら収穫の出来高イコール、それはこれから始まる「先(一年間)」を、どう過ごして行くことが出来るかの、大体の「目安(家計の予算)」が定まる時だからです。


 しかし、神が与えて下さる「恵み」の全ては、神の「ご計画」の中にあって初めて、確実に結実して行くものです。そうです!人間の思う(計画する)通りに、収穫物を増産することは、「今年は出来ても、果たして来年はどうなるか?」など誰にも分からない程、「収穫(実り)」そのものが、天気天候に左右されることを、誰もが熟知しています。地の恵み、日差しの恵み、水(雨)の恵みなど、それらを「人」は、完全にコントロール出来ません。


第一の規定
 「それらのものは、初物の献げ物として主に捧げてもよいが、宥めの香りとして祭壇に捧げてはならない。」(12節)これは私たちが、必ず覚えておかなければならない、霊的に重要な規定です。そして「感謝」の献げ物に成り得る、第一条件が「初物である!」という点です。「初物」とは霊的に、私たちの純粋な心の表明を意味します。


 例えば、私たちが「礼拝」において、「感謝」のしるしの一つとして、「感謝献金」を捧げる場合に、これを捧げたからと言って、その行為自体が、「霊」と「真」による礼拝を指す訳ではありません。神ご自身が求めておられるのは、「献金」の額や、捧げたか否かと言った次元ではなく、その時に表明する、私たちの純粋な心(霊)の有様(有りのままの姿)なのです。


 つまり、私たちが如何なる状況にあっても、神の御前に私たちの「全て」を、純粋に指し出すこと、このシンプルな心の表明を、主なる神は求められます。たとえ「今の時」に、「感謝」のしるしを捧げる「(経済的な面での)余裕」が無かったとしても、「私(あなた)」を生かし、「私(あなた)」を導かれる方(主なる神)の「恵み」により、「礼拝」に出ることが出来る!という、神の偉大なる「取扱い(ご計画)」の中にあることを覚えて、素直に感謝すること、これこそが霊的な初物となります。


 私たちが、様々な状況(フィールド)に導かれた時に、父なる神に対して必ず、ある種の「期待感」を表明することでしょう。「主よ、私はこれ程の強い信仰をもって、自分自身を捧げます。ですから、この一年間(一ヶ月、一週間等)を祝福して下さい!」、「私は今から信仰の種を、この地に蒔きますから、どうぞ豊かな実り(収穫)を与えて下さい!」などと。ところが月日を幾ら重ねても、「何」も変化が起こらず、「実り」あるものが得られない時に、私たちはすぐに失望し、「ため息(不信仰のしるし)」をつくのです。


 人間的な「期待感」は、神の「御心」を無視しながら、人間的な「収穫」のイメージを描く故に、私たちも人間的な信仰という、霊的「罠」に陥ります。しかし主なる神が、私たちに対して望まれる(期待する)ことは、神の「恵み」によって、「私たち」という霊的初物が、純粋に(生きた聖なるものとして)捧げられることです。


 主なる神が、如何に私たちのことを愛し、常に見守るべく正しく導きながら、新しい「復活の命」を与え生かして下さる!という、父なる神の「視線(目線)」に立つには、まだまだ私たちの側に、霊的な「高ぶり」が多くある、つまり霊的に砕かれなければならない、悪しき「部分(大きな自分)」が多くあるのです。しかし覚えて下さい!主なる神は私たちのことを、常にイエス・キリストの「贖い」により、「初物」として見て下さり、私たちの「有りのまま」を受け取って下さいます。


第二の規定
 「穀物の献げ物には全て塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物には全て塩をかけて捧げよ。」(13節)献げ物に関する「塩」とは、霊的に如何なる意味があるのでしょうか?この節には、明確に「あなた」と「あなたの神」との契約のしるし、それが「塩」である!と記述されています。その「契約」とは、主イエス・キリストの「贖い」により、切っても切れない程の関係にあり、何ものにも代えられない程の、父なる神との親しい(緊密な)、「永遠の交わり」のことです。


 つまり私たちが、主なる神と親密につながっているからこそ、「収穫の時」に、実りあるものをもって捧げることができ、主なる神との「親しい交わり」を通して初めて、私たちの内側から、産み出すものが「何」も無かったとしても、主イエス・キリストによる「贖い」の血潮が、霊的に注がれているが故に、私たちは自分自身(イエス・キリストの血潮に覆われたあなた)を、神への「感謝」のしるしとして、純粋に表明すれば良いのです。そうです!イエス・キリストの「血潮」に優る、霊的な「塩味」はありません。「感謝」の献げ物には、この霊的な「塩(イエス・キリストによる贖いの血潮)」を欠かさないこと!、これをいつも覚えて捧げましょう。


第三及び第四の規定
 「初穂の献げ物を主に捧げる場合は、麦の初穂を火で炒って挽き割りにしたものを初穂の献げ物として捧げよ。それにオリーブ油を注ぎ、乳香を加える。」(14~16節)この最後の規定の中に示される、重要な霊的キーワードは、「火」と「油」です。仮に私たちが、霊的な「塩(イエス・キリストによる贖いの血潮)」を注がれ、祭壇上に捧げられたとしても、私たちの側からは砕かれることも、点火されることもありません。


 ところが主なる神は、最終的に私たちの「感謝」という、霊的な献げ物を聖めるべく、私たちが如何なる「初物」であっても、先ずイエス・キリストの貴い「血潮」をもって、霊的に注ぎ味付けして下さり(①血潮の注ぎ)、そして更に聖霊様を通して霊的に砕くべく、聖なる炎をもって聖め尽くして下さいます(②火と油の注ぎ)。何故なら、「かたまり(大きな私)」で焼くよりも、砕いて(挽き割りにして)「粉(小さな私)」にしたものに、「オリーブ油」を混ぜて焼いた方が、香ばしい「宥めの香り」が生じ易いからです。


 このように、聖霊様は私たちのことを、「これまでか、これまでか・・・・」と思う程に打ち砕き、「粉」の如き状態にまで取扱って下さいます。そうです!私たちは霊的に砕かれなければ、「上」からの聖なる油と聖めの炎、そして生ける水(命の水)も注がれることはありません。


 たとえ、私たちが如何なる状況と、如何なる時にあっても、また如何なる収穫の量を得たとしても、主なる神にとっては、そのようなレベルが重要なのではなく、私たち自身が主イエス・キリストの「贖い」により、既に「初物」である!こと、これを常に覚えておきましょう!主イエス・キリストによる、十字架の「贖い」の御業を通して「あなた」を見た時、主なる神は「あなた」のことを、「初物(純粋無垢な子羊)」として受け入れて下さいます。


 それ故に、私たちが素直に神の御前に出る時、父なる神の御手をもって「あなた」は、主イエス・キリストの「血潮」によって味付けされ、最終的に聖霊様が丹念に打ち砕いて「粉」にし、オリーブ油と混ぜて練り聖めることで、「あなた」は全焼の生贄とと共に「感謝」の献げ物、つまり父なる神との永遠の契約のしるしになるのです。


 私たち自身が、日々捧げる「感謝」のしるしは、私たち自身の今後の歩みにかかっています。常に聖霊様の「判断」を仰ぎ求め、「自分」の歩みが、如何なる「感謝」のレベルにあるのかを、謙虚に尋ね求めましょう!そうすれば「不平」と「呟き」が、ついつい唇から出て来るような状況(歩み)にあっても、「私(あなた)」を取扱われる重要な時間帯と恵みの時が、聖霊様によって与えられていることに、あなたは気付かされることでしょう。


 聖霊様の豊かな取扱いが、常に「あなた」を練り聖め、特に「火」と「油」と「命の水」が、「あなた」の信仰の歩みに豊かに注がれることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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