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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.27)

                      三種類の感謝のしるし




献げ物をかまどで焼いて穀物の献げ物とする場合は、酵母を使わずに、オリーブ油を混ぜて焼いた上等の小麦粉の輪形のパンか、オリーブ油を塗った酵母を入れない薄焼きパンとする。献げ物を鉄板で焼いて穀物の献げ物とする場合は、酵母を使わずに、上等の小麦粉にオリーブ油を混ぜ、それを幾つかの塊に分け、その上にオリーブ油を注ぐ。これが穀物の献げ物である。献げ物を平鍋で蒸して穀物の献げ物とする場合は、上等の小麦粉にオリーブ油を混ぜて作る。こうして作った穀物の献げ物を主のもとに携えて行き、祭司に手渡すと、祭司はそれを祭壇に供える。祭司はこの献げ物から一部を取り分け、しるしとして祭壇で燃やして煙にする。これが燃やして主に捧げる宥めの香りである。
                                                                                                            【レビ記2章4~10節】


三種類の焼き方
 今回の記述によると、「穀物」の献げ物を焼く方法として、三つのパターンが描かれています。つまり第一のパターンは、「かまど」で焼き上げる方法、つまりオーブン焼き方式(4節)です。それに対して第二のパターンは、「鉄板」の上で焼く(5節)方式、そして第三のパターンが、「平鍋」の上で蒸し上げる方式(7節)という、この三つのパターンに分類されます。


 更に、この三つの方式を詳しく整理分けしますと、各方式に父なる神の定めた、共通事項(規定)が記述されています。実はこの共通規定の中に、私たちが「感謝」の意志を、父なる神に対して表明する際の方向性が指し示されています。つまり、私たちの父なる神に対する、「感謝」のしるし(表明)は、今回の三種類のパターンの内、「一つのパターン」のみを選択して、捧げればよいというものではなく、最終的には第一のパターンである、「かまど焼き」の方向性に、私たちがレベルアップすることが要求されます。しかし、それと同時に父なる神は、私たちの信仰の「成長度合い」に応じて、「鉄板焼き」でも「蒸し焼き」でも構わないことを、容認されているのです。


「感謝」という意識
 私たちが、この三種類の「感謝」のしるしを捧げることは、霊的に如何なる奥義を、私たちに教え示しているのでしょうか?今回の記述から示される、私たちに対する霊的問いかけ(方向性)、それは「感謝というものは、どういった所から産み出されるのか?この問いを私たちは、常に意識しておく!」ということです。


 「感謝」という言葉は、非常に素晴らしい「標語」の一つです。しかしそれと同時に、私たちは単純に感謝出来ない状況(時)のことを、ふと思い浮かべるのではないでしょうか?例えば「良きこと(自分にとって好ましい状況)」が生じた場合には、すんなり「感謝します!」と表明できるのですが、自分にとって好ましくない(予想していない)「悪しき状態(状況)」に追い込まれた時に、この「感謝」という意識は、既に消滅しているのです。このように私たちの「霊」の状態は、常に「酵母菌(パン種)」の有無如何によって、膨らんだり萎んだりしている等、不安定なものと言えます。


 今回捧げる「パン」に関しては、この「酵母菌」を絶対入れてはならず、更に「味覚」を良くするため、「塩」や「砂糖」等の添加物も、一切混入させてはならない規定(11節)になっています。つまり「穀物」の献げ物は、何らかの味気が全くないもので、只混入することが認められているもの、それが「オリーブ油」です。


 このことは、①私たちの「霊」の中には常に、「罪」がもたらす血肉の法則が働いていること、そして②イエス・キリストの「贖い」によってのみ、血肉の法則を産み出すもの、つまり罪の「パン種」が取り除かれること、更に③聖霊ご自身の聖なる働き(オリーブ油)によって初めて、私たちが本来の生きた聖なる供え物(かまど焼き)に、造り変えられることを指し示しています。


 主なる神にとって「酵母菌」や、「塩」そして「砂糖」等は、たとえ人間的には「美味しいもの」であっても、「不純物(霊的な汚れ)」と見なされます。つまり、父なる神が私たちに要求されることは、仮に私たちの中に「悪しきもの」があり、霊的に美味しくない状態であったとしても、私たちの「霊」の直ぐなる状態(ありのまま)を、ストレートに(味気の無いまま)祭壇上に置くことです。


「感謝」の賜物を求める
 今回の三種類の焼き方に関して、一番最大の特徴となる「違い」は、「点火(持続)時間」です。ご存知のように、「鉄板焼き」が一番短く、逆に火力に十分注意しながら、ちょうど良い焼き上がりに仕上げるべく、時間と手間の要る方法が、「オーブン焼き」です。私たちの「霊」の中にある、悪しき罪の「パン種」を、丹念にじっくり取り除き、オリーブ油をもって練り聖めて下さる方、それは聖霊様だけです!


 ところで主なる神が、私たちキリスト者を導く、「万軍の主」として働かれる時には、イスラエルの民がエジプトを脱出した後、「レビ族」を行軍の先頭に配置した時と同様に、それは「感謝」と「賛美」を、私たちが如何なる時にも、優先して捧げることで、大いなる勝利をもたらして下さいます。そうです!エリコの巨大な城壁を破壊し尽くした神の「力」は、まさしく私たちが捧げる、「感謝」と「賛美」から始まる!と言っても過言ではありません。


 「賛美」の中に、主なる神が住まわれる(臨在される)のであれば、たとえ私たちが如何なる状況に置かれたとしても、聖霊様が「天(上)」より、感謝と賛美の外套(油注ぎ)を着せて下さる時、取るに足らない私たちの「霊」の只中から、聖霊様が神の「火」を点火させて下さいます。そして最初は「蒸し焼き」や、「鉄板焼き」程度のパンの状態かも知れませんが、最終的には「オーブン焼き」のパンとして、仕上げて(完成して)下さいます。


 主なる神ご自身が闘って下さる限り、私たちは神の「導き」に従順して、聖霊様と共に行軍するだけで良いのです。そして私たちが為すべきことは、主なる神のみを見上げ、高らかに御名を褒め称えることです。そうすれば聖霊様の働きにより、私たちは聖められた「感謝(穀物の献げ物)」を、御前に携え行くことが出来るのです。イエス・キリストの十字架の「贖い」の御業が無ければ、「感謝」の賜物は、与えられることがありませんでした。


 私たちがイエス・キリストに対して、霊的な賜物である「感謝」を携え行く時に、私たちの中からは何も産み出すものが無い訳ですが、主なる神が用意して下さる「感謝」をもって、私たちの「全て」を、聖霊様の「炎(火力)」の中において焼いて下さいます。これこそが、有り難き神の「事実」です。私たちは常に、この神の「事実」を謙虚に受け留め、人間的な事実に依り頼まず、また人間的な「肉の法則(酵母菌)」に頼まず、聖霊様が用意して下さる、「聖なる油(オリーブ油)」を受け留めていく時に初めて、私たちの「霊」の中に、主なる神が豊かに住んで下さり、イエス・キリストの「贖い」の御業を通して、私たちが「天国人」として、更に完成されて行くことを信じて下さい!


 私たちは如何なる時にも、人間的な「感謝(無理につくったもの)」を捧げるのではなく、聖霊様が用意して下さる、「イエス・キリスト(命のパン)」を、祭壇上に携え行く時に、「上」より真のパン(感謝)が降り注がれることを信じましょう!あなたが如何なる状況にあっても、如何なる信仰の歩みの中においても、聖霊様による「上」からの聖なる油と、聖なる炎が降り注がれる時に、イエス・キリストの「贖い」の御業と、父なる神の「栄光」が、あなたの「全て」の中に豊かに現れ出ることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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