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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.26)

                         感謝を分かち合う




穀物の献げ物の残りはアロンとその子らのものである。これは、燃やして主に捧げられたものの一部であるから、神聖なものである。
                                                                                                                   【レビ記2章3節】


神からの一方的な「贈り物」
 ご存知のように「全焼祭」が、捧げられた「供え物(生贄)」を、全て焼き尽くすのに対し、今回の「穀物」の献げ物は、「一掴み分」を祭壇上に捧げればよいという、非常に方法としては簡単なものです。と言うことは、「一掴み分」を除いた穀物が多く残ることになります。


 この「残り物」には、如何なる意味があるのでしょうか?今回の献げ物に関する規定のキーワードは、「感謝」です。この「感謝」の献げ物を携えて、私たちが父なる神の大庭に行く時、私たちは父なる神が、いつも与えて下さる「上」よりの恵みに対して、シンプルな表明を捧げることが、この「穀物」の一掴み分を意味する奥義ですが、私たちは神の「恵み」に関する奥義についても、次の点を覚えておくべきです。


 それは「恵み(恩寵)」とは、私たちの側から「何らか」の努力をしたから、これ位の報いが与えられるという、双方の関係によって得られるものではなく、私たちの側がどうであれ、あくまで神からの一方的な贈り物である!という点です。そして「感謝」とは、主なる神が与えて下さる一方的な「贈り物」、つまり私たちが努力しても得ることの出来ない、素晴らしい「上」よりの「贈り物(恵みの一部)」に対して、霊と真をもって、自分の意志(素直な喜び)を表明することです。


 その「贈り物」とは、私たちの中にある霊的な「罪」、つまり私たちの肉の努力では、決して返済することの出来ない「負債」の数々を、父なる神は一方的に「贖いの子羊(イエス・キリスト)」という、唯一の生贄(永遠の救いの保障)の流された、十字架の貴い血潮により、私たちは常に「聖なる者(汚れ無き者)」として、父なる神の御前で受け入れられる!という、父なる神の偉大なる「恵み(特権)」のことです。


「残り物」を分かち合う目的
 このような私たちに与えられた、父なる神の贖いの「恵み」に対して、私たちが「感謝」の献げ物をもって、「神の大庭」に携え行く時に、キリストの共同体であるエクレシアの中において、前述した「残り物」を分かち合うという、神が定めた今回の規定の方向性が、実は非常に重要となります。


 ご存知のように私たちキリスト者の「全て」は、イエス・キリストを「救い主」と信じた時から、神の僕(しもべ)として生きるようになります。即ち全てのキリスト者が、たとえ如何なる身分であっても、そして如何なる能力を有する者であっても、父なる神に等しく召し出されているのです。


 それ故に私たちキリスト者が、イエス・キリストの「み体」なる、エクレシアにおいて為すことは、父なる神が日々与えて下さる、「上」からの恵みの数々を、霊的にも物理的にも共に分かち合う(分配し合う)ことです!つまり「一掴み分」は、主なる神が受け取って下さる訳ですから、「残り物」を共に分かち合うことが求められているのです。


 イエス・キリストは唯一の真理、そして唯一の神の御子、唯一の真の「救い主」です。この唯一の「救い」の御名の下に、私たちが「一つ」共に集まり、今回の「穀物」の献げ物に関する、霊的な奥義を学んで行く時に、新約の時代に産声を挙げた霊的「み体」、即ちエクレシアの本来の在りかた(原点)に、私たちは立ち返ることになるのです。


彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。全ての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、全ての物を共有にし、財産や持ち物を売り、各々の必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
                                                                                                      【使徒行伝2章42~47節】


 ご存知のように私たち人間は、「一つ」になるという行動が、中々為しえません。しかし私たちキリスト者は、この「一つ」になるという概念を、霊的にシンプルなイメージで考える時、それは不可能ではありません。「この世」の人間関係の「接点(つながり)」は、相互間の「取引」や「助け合い」という、双方の信頼関係があって初めて成立するものですが、一旦それが切れます(破綻する)と、すぐにも関係が途絶します。しかし私たちキリスト者の場合は、たとえ如何なる状況下にあっても、「エクレシア」の中において、神の与えて下さる日々の「恵み」を共に分かち合う時に、神の偉大なる「救い」の御業を、日々体験して行くことになるのです。


 「この世」は更に景気が悪化し、先行き(明日の生活)が、どうなるか分からないという、日々の生活の中にあっても、私たちキリスト者は、「イエス・キリスト」にある希望と、「イエス・キリスト」にある信仰が、助け主聖霊様の導きを通して常に与えられています。そうです!この大いなる霊的ガイダンス、即ち聖霊様が、イエス・キリストの「救い」のご計画を、必ず完成する導き手として、私たちを常に導いて下さっていること、このことを先ず「感謝」の献げ物として、父なる神に表明しましょう!


 私たちキリスト者は、「イエス・キリスト」にある(中心とする)相互の交わりによって、「感謝」の恵みを分かち合う時、それは必ず素晴らしい、イエス・キリストの「栄光」を現す収穫が、更に増し加えられることになるのです!イエス・キリストが必ず「あなた」を祝福し、いずれ来る「終末の時」に備えて、天の「宝(恵み)」が多くあなたの「人生」に、用意されることを信じて下さい。そしてこの神の「恵み」を、いつ如何なる時にも分かち合い、聖徒の交わりの中心、「エクレシア(召し出された者)」の中において、私たちの家長主イエス・キリストに、日々「感謝」を捧げられる者でありますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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