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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.25)

                    日々の糧を感謝する時




穀物の献げ物を主に捧げる時は、上等の小麦粉を献げ物としなさい。奉納者がそれにオリーブ油を注ぎ、更に乳香を載せ、アロンの子らである祭司たちのもとに持って行くと、祭司の一人がその中からオリーブ油のかかった上等の小麦粉一掴みと乳香全部を取り、しるしとして祭壇で燃やして煙にする。これが燃やして主に捧げる宥めの香りである。
                                                                                                              【レビ記2章1~2節】


穀物の献げ物(穀物祭)
 今回の「献げ物」は、「全焼祭」の時と比較して、非常にシンプルな方法で為されます。しかし「穀物祭」の場合は、「全焼祭」が年に数度と、回数が少ないのに対して、各家庭において自由に奉納するため、何度為されても受け入れられる、つまり日毎に、或いは週毎に、そして月毎に為すことが求められるものです。しかも穀物の「献げ物」は、全焼の「献げ物」の場合が、「罪」の贖いを目的とするのに対し、霊的な意味合いとして、主なる神が与えて下さる「恵み」に対する、日々の感謝を表明することを目的とします。


 ところで神が天より与えて下さる、日々の「恵み」に対する、私たちの「感謝」の献げ物とは、如何なるものでしょうか?いつ如何なる時にも主なる神は、私たちに対して素晴らしい「形」として、それが目に見えるものであっても、見えざるものであっても、様々な方法をもって与えて下さることを、私たちは神の「事実」として受け留めている(知る)訳ですが、私たちはそのこと(恵みの数々)を、すぐ忘れてしまう罪の性質があります。何故なら、そのことを当たり前のように、私たちは受け取ってしまうからです。


 しかし神の「恵み」は、決して当たり前のことではありません!「罪」を犯したアダム(エバ)が、「エデンの園」を出発してからは、「世」が与える様々な呪いと、天気天候によって左右される、大地の枯渇(日照りや不作)という状況に、毎日歩まざるを得ない中にあっても、主なる神は彼らの日々の生活(Daily Life)を保証すべく、彼らに対して「あること」を為すように命じました。それは神が与えて下さる、日々の「恵み」を覚える(忘れない)ため、「感謝」の献げ物を必ず捧げる!という、日々の聖なる務め(礼拝)のことです。この「献げ物」を捧げることを通して、彼らは「主なる神は決して、私たちのことを見捨てていない!」という確固たる信仰が、「上(天)」より着せられることになります。これが「穀物祭」の霊的意義(方向性)です。


上等のものを捧げる
 「穀物祭」は、各自が畑に種を蒔き、時が満ちて何らかの収穫を得ることで、初めて捧げ得るものだと私たちは錯覚します。しかし、今回の「献げ物」に関しては、刈り入れされた大麦や小麦などを、脱穀して「粉」にしたものを、しかもそれは上等のものを捧げることが、規定に含まれていることから、収穫した量に対する感謝の表明ではなく、たとえ不作であっても豊作であっても、各自が収穫した産物の中から、最上の穂を選別して、それをもって粉にするという、「量」ではなく「質」をもって、神に感謝の表明(霊的な態度)を示すという、非常に奥深い霊的礼拝が要求されているのです。


 それ故、「穀物祭」の第一の重要な奥義(ポイント)は、「上等の」(1節)というキーワードです。本来私たちは、「罪」故に呪われた大地という、決して得る(受ける)ことの無い不毛の地にあっても、主なる神は私たちのことを、見捨てることも孤児とすることも無く、また飢えさせることも無く、「瞳」の中に入れても痛くないと思う程に、常に愛して下さり、日々「天」よりの祝福をもって、「恵み」を降り注いで下さっています!


 このことに対して私たちは、当たり前の事と思うのではなく、一体「何」を捧げるべきでしょうか?ある者は礼拝において、「この一週間守られたことを感謝します!」などの祈りをしたり、又ある者は一日の労苦を終え、寝床に就く前に「今日も神の恵みの中で、無事に仕事を為すことが出来たことを感謝します!」と報告をする等、様々な「捧げ方」があります。ところがサタンは、カインに誘惑した時と同様に、次のようにそそのかします。「あなたが、こんなに努力したのだから、これ程の成果(収穫)が得られたのです。確かに、神の恵みによる所もあるかも知れませんが、あなたの手の業による場合も、評価に入れるべきですよ!」などと。


 ここで覚えて戴きたいことは、主なる神の「御思い(御心)」の中では、私たちが測り巡らすような、例えば十分の一の「量(金額)」などの、数量的単位に関しては、全く興味を示されないという点です。私たちの浅薄な判断によれば、「上等の~」と提示された場合、それを「立派な~」、「きれいな~」、「上質の味覚」など、いわゆる「最上レベルのもの(複数的イメージ)」で把握しますが、主なる神にとっては、その人が一番大事にしているもの、つまり「これが無くなったら・・・・」と思う程のものを要求されるのです。


 その時私たちは、霊的に試されることになります。それは、たとえ「上等のもの」を捧げたとしても、それに優るものを主なる神が、いつも与えて下さっていることを知っている者は、必ず捧げ切ることが出来る(そのように導かれる)テストのことです。自分が一番大切にしている「もの(人にとっての上等のもの)」よりも、もっと遥かに優った、麗しい神の「恵み」こそが、本当の「神の上等のもの」である!と、聖霊様を通して知らされるからです。


一掴み分を捧げる
 第二のキーワードは、「穀物祭」に捧げる小麦粉が、「一掴み分」(2節)という単位(量)のことです。ご存知のように「全焼祭」は、捧げる単位が「全部」です。しかし「穀物祭」は、僅か「一掴み分」を、祭壇の火の中に投げ込むだけでよいのです。主なる神は、私たちの「霊」の中にある、純粋な(上等の)捧げ物、そして弱いパーツをご存知です。また自分が如何なる状況にあっても、私たちが神の御前に出て、私たちの直ぐな心(一掴みの捧げ物)を祭壇上に差し出す時に、主ご自身を喜ばすことの出来る「香り」が、天に昇っていくのです。


 オリーブ油のかかった「一掴みの小麦粉」を捧げること、これは私たちの霊的表明を意味します。たとえ取るに足らない、不信仰だらけの私たちであっても、「主よ、私の直ぐな心を捧げます!どうか受け取って下さい。」と表明する時に、更に自分が神の「恵み」によって生かされ、日々守られ歩み続けることが出来ることを、再び思い起こす瞬間へと、聖霊様は導いて下さいます。


 私たちは日々の「恵み」を、中々覚える(思い起こす)ことが出来ていません。「主の祈り」も、只のお題目として唱える時もあります。しかしそれでも聖霊様は、私たちが神の「恵み」を、日々忘れることが無いようにと、様々に取扱われていることを感謝しましょう。そうです!私たちが喜んで「直ぐな心」を捧げるべく、主なる神の御前に出られる者でありますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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