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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.24)

                          全焼のフィナーレ




奉納者が内臓と四肢を水で洗うと、祭司はその全部を祭壇で燃やして煙にする。これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主に捧げる宥めの香りである。
                                                                                                                   【レビ記1章9節】



 いよいよ奉納者は、「全焼祭」の最終プロセス(手順)に至ります。「頭」と「脂肪」が燃え盛る祭壇上に、最後のパーツとなる「内臓」と「四肢」をくべる訳ですが、特に「内臓」に関しては、十分に水で洗い聖めてから、丁寧に「火」の中にくべることになります。


 「残り物には福がある」の慣用語ではありませんが、この最後に残った「内臓」と「四肢」のパーツには、如何なる意味があるのでしょうか?私たち「人体」にとって、一番「何」が重要なパーツですか?と問われた場合、大抵の人々は「脳です!」と即答します。しかし「体」の運動的メカニズムから見れば、「脳」は各神経組織に渡って電子パルス(信号)を、発したり受けたりしているに過ぎません。


 ところが、そんな「脳」以上に最も多く運動しているパーツとは?つまり「内臓」の中で一番重要となる臓器であり、「人体」の隅々に「血液」を循環させるべく、絶えず休むこと無く動いているパーツ、それが「心臓」です。そして「手」と「脚(足)」の四肢体、これらも眠ってる時は別として、常に活発に動き回っている器官ではないでしょうか。


燃やし方の「最終手順」
 「全焼祭」のフィナーレを飾るもの、それが「水」で洗い聖めた「内臓」と「四肢」ですが、「全焼」とは言語的には、燃やすことで生じる「煙(オーラ)」が、天に昇っていく有様を意味します。そして煙と同時に生じる「香り」が、霊的な奥義として重要な意味を示しています。


 ところで「肉片」を、実際に「火」の中にくべますと、何らかの「煙」を生じますが、どちらかと言えば私たちは、その焼けた香ばしい「匂い(香り)」に、嗅覚(→食欲)を駆り立てられます。父なる神にとっては、私たちが感じるような、「食欲」といった三次元的感覚は無いのですが、この「香り」に関しては、私たちが本能的に嗅覚を研ぎ澄ますかの如くに、父なる神は私たちの霊的な「香り」を、常に求めておられます。


 ところで奉納者は、何故「水」を使用するのでしょうか?それは血生臭い部分が各パーツにこびり付き、「匂い」も酷く際立っているからです。それ故に、全ての血液の汚れと匂いを取り除くべく、丁寧に洗い流し(落とし)ながら、各々を聖められたパーツとします。実は、この手の込んだ最後のプロセスの中に、聖霊様が私たちに教え示す、重要な霊的奥義があるのです。


 私たちは確かに、イエス・キリストの流された、貴い「十字架」の血潮により、霊的には罪が洗い聖められた器になりましたが、私たちの日々の歩みは、「汚れ」と「罪」に染まり易い生き方の中で、「この世」に暮らさざるを得ません。ところが聖霊様は、スカルの井戸で「真の救い主(イエス・キリスト)」を、ひたすら待ち続けた一女性に対して、働きかけたのと同じ「導き(取扱い)」をもって、私たちに尽きることの無い、「命の水」を与えて下さっています。


 そして私たちは、この「命の水」を飲むことも大切ですが、それと同時に自分自身の中にある、「血肉(肉の行い)」による霊的な汚れを、聖霊様の与えて下さる「命の水」をもって、いつも洗い聖めて戴く!この点をも祈り求める必要があります。「私は命の水に、今飢え渇いています。聖霊様!あなたが下さる、命の水を飲まして下さい!そして命の水をもって、この汚れた私を覆い聖めて下さい!また洗い流して下さい!私の手の業、足の歩み(行い)、私の思い(腹、心臓)の全てが聖められますよう、今命の水を流し、洗い落として下さい!」と。その結果洗い聖められた、このシンプルなパーツが、ようやく神の祭壇上に捧げられるもの、つまり最後のフィナーレを飾る、重要なパーツとなるのです。


生きた聖なる捧げ物として
 「水」で洗い聖められ、「水」に十分浸された二つのパーツ、即ち「内臓」と「四肢」は、祭壇上に置かれ「火」を通されることで、一気に水蒸気の「煙」が立ち込めます。それと同時に「火力」が最高点に達している中に、最後のパーツとしてくべられることで、物凄い香ばしい「匂い(香り)」が、バランスの良い有様(立ち昇り方)で、水蒸気と共に昇っていくのをご覧になり、父なる神は「おー!何と私の心を満たす(宥める)、麗しい(芳しい)香りだろう。」と喜んで、受け留めて下さるのではないでしょうか!


 この「宥めの香り」に関して、霊的に如何なるイメージをもって、主なる神は受け留めて下さるのでしょうか?主なる神は、私たちの出す「香り」が如何なるものであるのかを、非常に気にかけていらっしゃいますが、そのイメージとは単なる、「美味しそう(喜ばしくてたまらない)か否か?」などの次元ではなく、ある一つの「思い」をもって、私たちという「全焼」の生贄から立ち昇る、霊的「香り」に嗅覚を研ぎ澄ましておられます。


 それはローマ書12章に記されていることですが、奉納者が自分の「命」と引き換える程にまで、「子羊(子牛)」を捧げ尽くしているか否か?ということを、主なる神はその「香り」の中に、確実に見出すことが出来るのです。つまり「手順」通りに行っていると必ず、立ち昇る「香り」の中に見えてくる次元があるのです。父なる神にとって、「全焼」の生贄の一番重要な「香り」の次元とは、それが「生きたもの」として捧げ尽くされ、それを聖別(聖なるものとして捧げ切ること)しているという点です。これこそ私たちが為すべき、最高の礼拝(奉納)なのです!


 仮に私たちを、祭壇上に横たえる「捧げ物」とした場合、私たちは「え!私がイサクのように、生贄になるのですか?それでは、私が死ぬ!ということですね?」などと、「生きた供え物」のイメージが、決して浮かび上がることがないでしょう。しかし「私」の代わりに、「子羊」が身代わりの生贄として捧げられる場合、主なる神が命じる「手順」通りに、各パーツを捧げ尽くす過程で、私たちは「子羊(イエス・キリスト)」の中に、自分の「罪」の贖いを見せられ、自分が「イエス・キリスト」を通して、生きた聖なるものとして捧げ尽くされていることを、改めて知ることになるのです。そうです!私たちは霊的に「死」を通過した時に、「生」を実感させられるのではないでしょうか。


 聖霊様は私たちが、如何に「罪」に染まり易い器であるかを、十分にご存知の上で、永遠の御国の婚礼の宴において、主イエス・キリスト(花婿)と相まみえる際にも、「おー!何と芳(かぐわ)しい良き香りを、あなたは放っていますね。あなたの中には、主イエス・キリストの貴い血潮を、愛して止まない香りが漂っている。私と共に、愛する花婿の御元に行こうではないか!」と、私たちに正しい「手順」をもって導いて下さいます。


 あなたの上に、聖霊様の豊かな霊的「取扱い(手順)」と聖めの「歩み」が、主イエス・キリストの「救い」を通して現され、父なる神の御元へと芳しい良き香りが、あなたの為す日々の礼拝によって必ず立ち昇っていくことを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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