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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.22)

                      切り裂かれたパーツ




奉納者が、献げ物とする牛の皮を剥ぎ、その体を各部に分割すると、・・・・
                                                                                                                   【レビ記1章6節】


「切り裂く」というプロセス
 ご存知のように私たち生物の「体」は、どれ一つとっても、守らなければならない弱き生体です。即ち、何らかの「守り(保護)」が無ければ、すぐ傷付き易い(壊れ易い)パーツなのです。アダム(エバ)が「罪」を犯さなければ、本来私たちの「生体」は、「エデンの園(神の大庭)」において、「安全」という言葉を考えなくてもよい程、完全なる神の「守り(平安)」の中にありました。ところが「罪」故に、私たちは肉体的な苦労を伴い、様々な悪しき条件下にあって、「Body(体)」を守らなければならなくなったのです。


 今回の第二の処理過程において、礼拝者(奉納者)は次に「何」を為したのでしょうか?奉納者の前には、「血」を完全に出し切った、「骸(死体)」が横たわっています。この時主なる神が、奉納者に命じた第一の命令は、「内臓を覆っている皮を、全て剥ぎ取りなさい!」でした。彼は命じられた通りに、頭部と四つの脚を切断します。


 ところで主なる神は、何故このような「切り裂く(切り分ける)」というプロセスを、奉納者に命じているのでしょうか?焼き尽くす献げ物の本来の目的は、奉納者の為す一つ一つのプロセス(業)を、父なる神がじっくり見定めるために、命じているのではありません。奉納者にとって、「全焼の生贄」のプロセスの「全て」は、見るに耐えられない程の苦痛を味わいます。何故なら、自分の「罪」が如何に愚かであり、自分が醜い弱い存在であるか等を、このプロセスを通して知らされるからです。


 今回切り裂かれた「生贄」は、全部で六つのパーツになりますが、この第二のプロセスを通して主なる神は、焼き尽くす上での「迅速性」を高めるべく、切り裂くという手順を示しています。即ち切り裂かれたパーツは、一つの「大きな体」としてよりも、更に燃え易くなる状態に変えられたのです。主なる神が「全焼の生贄」に対して、一番に期待していること、それは切り裂かれた「生贄」が、焼き尽くす過程で立ち昇る、香ばしい「香り」です。


切り裂かれたパーツの意味
 では私たちにとって、この切り裂かれたパーツとは、如何なる意味を持つのでしょうか?先ず「皮」についてですが、ご存知のように「皮膚組織」は、私たちの「体」を保護している重要なパーツです。父なる神が望まれる「生贄」とは、「ことごとく(悔いた)砕かれた有様(小さなパーツ)」です。文字通りそれは、如何なる「皮」も覆っていない、「ひき肉(ミンチ)」の如き霊的状態を示しています。


 例えば私たちの「頭」の中には、「霊」が欲することを後回しにする程、「自分で何もかもしたい!」、また「自分の力で何とかやれる!」などの、自己中心的な肉のかたまりの如き状態になっています。そうです!私たちは中々、悔いた砕かれた状態には、霊的に変革されていない部分(焼かれていない大きなパーツ)が、多くあるのではないでしょうか!


 「聖霊のバプテスマ」を授かった直後の私たちは、確かに聖霊様の「力」を受けて、神の国から着せられる、大胆な信仰によって前進します。ところが暫くすると、聖霊様の「火(炎)」が失せたかの如くに(実際は消えませんが・・・・)、ある事に気付かされ前進速度が鈍ります。それは自分の中にある、「頭でっかち」な考え方、また自分の「手」や「足」などを、他者と比較して誇ってみようとする等、各パーツの醜さが露呈します。それ故に主なる神は、そのような「罪」の次元にあるパーツを見せることで、私たちに対して更に「砕かれた状態」へと、聖霊様によって切り裂くという聖めの業を、奉納者(イエス・キリスト)を通して為されるのです。


 そして私たちは、自分の現実の在り様が、如何に「小さな砂粒」の如き者であるかを、聖霊様を通して示して戴かなければ、「命の水」を満たす「器」として、流すことが出来ません。普段の生活においても、心が切り刻まれること程、嫌な経験はありません。特に人間関係において、自己中心的な「言葉」が、相互に心を切り刻むなど、まるで「ナイフ」の如き働きをします。


 しかし、私たちを霊的に聖めるべく、正しく切り裂くことの出来る方は、聖霊様(奉納者のナイフ)だけです。何故聖霊様は、あえて切り裂くという惨いプロセスを、私たちの人生に取扱われるのでしょうか?それは、私たちが常に神の「恵み」に、全面的に依り頼む生き方へと、霊的に軌道修正するためです。私たちにとって、自分が今まで依り頼んでいた部分が、聖霊様の霊的扱いによって削ぎ落とされることは、実に嫌な(好まざる)経験です。


「良き香り」を生むために
 しかし、私たちが最終的に、ミンチ状態(粉々に砕かれること)の処理プロセスを経た後には、主なる神が各自に用意している、本来の天の「ご計画」を必ず与えて下さいます。是非この奥義を信じて、聖霊様の取扱いを受け取って下さい!私たちにとって、この嫌な聖霊様の取扱い(切り裂くこと)を通されることで、私たちは初めて次のような言葉、例えば「火を注いで下さい!」等の告白を為すことが出来るのです。


 私たちは「油注ぎを与えて下さい!」、また「命の水で満たして下さい!」等の信仰の飢え渇きの表明は、いとも簡単に告白出来ますが、この「火を注いで下さい!」という表明は、真の意味を理解していなければ、中々為し得るものではありません(勿論熱心な信仰者の場合、この表明をもって自分の霊を高めようとしますが・・・・)。つまり「私自身が完全に無くなる程の、聖めの炎(火)をもって焼き尽くして下さい!」という表明は、自分自身の「全て」を、聖霊様の取扱いの中で完全に捧げ尽くすことで初めて、私たちの切り裂かれたパーツが、細かく聖められることになります。その結果、聖霊の火が点火し易くなり、実に「良き香り」がこの時生じ、父なる神の御元へと立ち昇って行くのです!


 一つの「良き香り」を生むこと、これはイエス・キリストが通られた「贖い」の御業故に、聖霊様は同様のプロセスをもって、私たちを霊的に切り刻み、そして「聖なる炎」をもって、まんべんなく焼き尽くすという、次のプロセスに至るためです。父なる神が奉納者に、この嫌な処理過程を命じられる理由は、「生贄(あなた)」が悔いた砕かれた状態へと聖めるべく、日々「小さいあなた」へと造り変え、完全に切り裂かれた生贄、即ち「私(己)」という部分が全く見えない「あなた」に、聖なる炎を注ぐことで完全に焼き尽くし、一つの「良き香り」を放つもの、つまりイエス・キリストの「香り」を現す、「聖なる器(神のもの)」を祭壇上にて、完成する為に他なりません。


 主イエス・キリストの贖いの「血潮」を信じて、大胆に神の祭壇上に進んだ「あなた」が、聖霊様の更なる取扱いによって日々聖められ、聖霊の火を注がれることによって、麗しい「良き香り」が、父なる神の「御心」を喜ばすことが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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