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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.21)

                     屠られた子羊の「血潮」




奉納者が、その牛を主の御前で屠ると、アロンの子らである祭司たちは、血を臨在の幕屋の入口にある、祭壇の四つの側面に注ぎかけて捧げる。
                                                                                                                   【レビ記1章5節】


「屠る」という行為の意味
 礼拝者(奉納者)が、神の臨在の「幕屋」に来て、引率して来た「羊(牛)」を、自らの手で直接屠ること、これは想像を絶する、恐ろしい行為(出来事)ではないでしょうか!「屠る」という行為は、如何なる動物に対しても、私たちは躊躇します。その生き物に「貴い命」を創造された、父なる神が居ますこと、また犠牲となる動物が、幼子と同様の「子羊(子牛)」レベルのもの、これらを考えてみても、恐らく奉納者は、各家庭の「家長」の立場にある者として、「我が子」を慈しむように、その「子羊」を養育してきた訳ですから、自分の「手」で殺す(命を絶つ処置をする)ことは、自分の「心臓」をえぐり取られる程の所業です。しかし、その行為を為さなければ、贖いの「血潮」も流れません。そして「献げ物」の意味が無くなる訳です。


 私たちは屠られた「子羊」が、霊的にイエス・キリストの、「贖い」を指すことを当然知っています。イエス・キリスト自らも、殺戮のフィールドである「十字架」上に、聖霊様に導かれながら行きました。彼は決して、正当な手続きである「裁判」を経て、絞首刑などの「死刑」に至った訳ではりません。私たちは、この子羊を屠る「目的」を、聖霊様から正しく教え示されることで、私たちの捧げる「礼拝」の行為においても、自らの「手」では、到底為すことが出来ない「弱さ」があることを知ります。そして更に、実は子羊なるイエス・キリストによる、驚くべき「贖い」の御業を、父なる神が自らの「御手」で、十字架上で屠って下さったことを、私たちが純粋に信じることで、私たちは無代価で、イエス・キリストの流された「血潮」を受け、奥深い「至聖所」の領域へと、大胆に入ることが出来るようになったことを、改めて学ばされるのです。


 何故自らの手「手」で、奉納者は「子羊(子牛)」を、屠らなければならないのでしょうか?その「目的」は、非常にシンプルなものです。今回示される第一の「目的」、それは一言で申し上げるならば、「血潮」を全部出し切らなければならない!からです。「贖いの生贄」の目的は、子羊(子牛)の生命を絶つことでは無く、「命」の根源である血潮の、「全て」を出し尽くす(注ぎ出す)ことです。


 それ故に、残酷な方法になりますが、殺し方が重要となって来るのです。ですからイエス・キリストの「死刑」の方法も、実は今回示されている、旧約の礼拝の規定と、同様のプロセスが為されているのです。そうです!イエス・キリストの「み体」から、贖いの「血潮」を完全に出し尽くすこと、これが父なる神の「救い」を、全ての人々に示す手順でした。


 絞首刑であるならば、「血潮」が流れることはありません。私たちの場合は、「情」が生き物に感情移入するため、「安楽死」という方法を用いる、例えば「子羊」の頭を、ハンマーなどで一撃することで、瞬時に「生命」を絶ち、その後に心臓に刃を入れ、「血潮」を流せばよいのでは?などの、簡単な方法を採ることでしょう。しかし、それでは「血潮」が全部流れません。


屠る「手順(処理法)」
 先ず、「子羊(子牛)」を目隠し処置して、四本の脚を縛ります。そして「子羊」の首に流れている、大動脈の血管に「刃」を入れ、一気に切り裂きます。すると大量の「血潮」が、噴水の如くに流れ出ます。引き続き、四本の脚の先端にある動脈も、同様に一気に切り裂きます。ここまで来ると「子羊(子牛)」は、かなり「生命力」がせ失せますので、最後に腹を縦状に切り開きます。それは次の段階で使用される、「内臓」が重要となってくるからです。そして弱り果てる、「心臓」に対して最後の刃を入れ、遂に「子羊(子牛)」の生命は尽きます。これは単なる、子羊(子牛)の屠殺処理とは違います。


 イエス・キリストも同様に、他の死刑囚とは違った方法(プロセス)で、十字架刑に処せられました。先ず①一般の民衆の前で、背中の肉を引き裂かれる程の、鞭打ち刑を受けました。続いて②頭に「荊の冠」をかぶせられ、頭部から大量の出血を伴いました。その瞬間、麗しい御顔が血潮に染まり、見るも無残な顔付きになります。それから③頭部の後ろを、こん棒で何度も叩かれました。①~③のプロセスで、殆どの死刑囚は気絶するか、死ぬかのどちらかです。しかしイエス・キリストは、「十字架」という贖いのフィールドまで、「十字架」を担いで歩いて行くという、最後の闘い(使命)が残っていたため、尚も聖霊様が彼に激しく臨みます。


 イエス・キリストはドロロサーの道を、何度も何度も倒れながら、遂に「処刑場」に辿り着いた時、彼は無理矢理ローマ兵に倒され、横たわる十字架上に寝かせられ、ロープで手足を括り付けられます。そして④両手両足(計四本)を五寸釘で固定され(釘打たれ)るという、想像を絶する苦痛を四度受け、この時も大量の血が「地」に注がれました。そして、イエス・キリストを磔(はりつけ)にした十字架が、地中に深く据え立てられ、最後にローマ兵が⑤イエス・キリストのわき腹を下から槍で突き刺し、心臓中心にまで達すると、殆どの「血液」が大量の「水」と一緒に流れ出て、遂に生命が絶たれたのです。


「血潮」に覆われた祭壇
 前述したように、父なる神が贖いの「生贄」を要求すること、それは単なる「子羊(子牛)」の生命だけではなく、「子羊(子牛)」の血潮を、祭壇上に全部注ぎ出すこと、このことに尽きます。それ故、血潮を「全て」出し切るということで、「死ぬ」にも時間を多く要するのです。自分が本来受けるべき、「罪」に対する処罰のプロセスを、誰か(子羊)が身代わりとなって全て引き受け、しかもそのプロセスが、「血」を大量に流す為という、この残酷極まる場面を見た時に、「如何に、自分の中におどろおどろしい、汚れたものが多く流れているか!」を贖いの「生贄」、即ちイエス・キリストの中に見出すこと、これが父なる神が奉納者、及び私たちに示したかった奥義です。


 しかし私たちは、父なる神に感謝しようではありませんか!パウロが、「私は、キリストと共に十字架に付けられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ書2章19~20節)と明言する如くに、、父なる神はこの恐ろしい出来事を、たった一度限りの贖いの御業、つまりイエス・キリスト(子羊)を、十字架上で屠ることにより、私たちは信仰をもって、この神の偉大なる「恵み」を受け留めることで、何度も贖いの儀式をすることが、もはや必要無いのです。


 イエス・キリストが流された貴い「血潮」は、私たちの「全て」を覆い尽くす程の、無尽蔵の「贖い」の御業を、今も「恵み」として現し示しています。このイエス・キリストの、聖なる血潮の「覆い」がある故、私たちは常に生かされ、神の「救い」の特権にあずかることが出来るのです。そうです!イエス・キリストの「血潮」故に、私たちの人生は豊かに保証されていることを、是非信仰をもって受け留めて下さい。


 そして主イエス・キリストの「血潮」は、私たちを聖なる器として、「完成」へと招き寄せて下さるものです。それ故私たち自らも、十字架上に献げられた一頭の「子羊」として、イエス・キリストと共に贖われていることを信じましょう!イエス・キリストの血潮の「覆い」によって、あなたの日々の歩みが、豊かに守り導かれますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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