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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.17)

                  祭壇に関する第三の規定




しかし、もし私のために石の祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。のみを当てると、石が汚されるからである。
                                                                                                     【出エジプト記20章25節】


単純な「ガイドライン」
 私たちは、自分のことを霊的にイメージする際、例えば「自分は、つまらない石ころのような存在(器)かも知れない。」などと、悲観的に描くことがよくあります。しかし主イエス・キリストは、そのような「石ころ」をも、生ける「神の宮」の霊的建材として、必ず用いて下さることも事実です!一見「何の役にも立たない!」と見える「石ころ」が、聖霊を通して集められ(召し出され)、神の「み体」に組み込まれる時に、麗しい「神の宮」が完成されて行くのです。


 ところが、私たちはソロモン王と同様に、人間的な「肉の力」を頼みとしながら、三次元的な「教会堂(建造物)」を造り上げることも可能です。そういう意味で、今回の「第三の規定」は確かに、私たちの霊的弱点を規制するかの如き、「罰則」のように思えるかも知れませんが、実はこの規定は、私たちを「正しい方向」に導くための、父なる神の「愛」に基づく、ガイドライン(道しるべ)であると受け留めて下さい。


 主なる神は私たちに対して、「道は一つである!」という、単純なガイドラインしか命じていません。ご自身が、唯一の「真の神」であるのと同様に、私たちに示される「規定」は、非常にシンプルな内容のものです。「命の木」なる御子イエス・キリストから、「全て」の物事の判断を仰ぎ、その方の「御心」に従うこと、これに優る「正しい道」は他にありません。ところが私たちは、この「唯一の道」から逸脱しようとする、霊的愚かさ(罪)があるのです。


「のみ」を当ててはならない!
 「第三の規定」を守り行う際、私たちは主なる神が「アダム(エバ)」を、創造した時のイメージを思い描いて下さい。父なる神の「人」に対する創造の御業は、本来のプロセスであるならば、「命の言葉」をもって、単純に「人よ、この地に産まれ出よ!」と、一言命じるだけでもよかったのですが、「アダム」に関しては、汚れ無き「聖き御手」をもって、「土」と「塵」をこね合わせ、わざわざ人の形に整えるという、非常に手間のかかるプロセスを採りました。しかし作業内容としては、直接「手」と「口」をもって作製するという、シンプルなアクションでした。そして私たちに示される「礼拝」も、私たちが自らの「命」を捧げることの出来る、「土の祭壇」を用意する!という、ごくシンプルなものです。


 しかし今回の「第三の規定」は、「石」を用いて祭壇を築き上げる場合には・・・・という、私たちが為すべき第二のプロセスを想定した命令です。今回のキーワードは、「のみ」を当てて削る行為です。そして今回示されている「石」とは、私たち自身がキリストの「み体」なる、エクレシアとして召集される際の、イメージとして把握して下さい。


 ご存知のように、神殿を建て上げる際には、様々な「石」が運び込まれて来ます。そして、その石が「素材(原石)」のまま、「神の宮」として建て上げられれば、生ける「神の宮」の一部分として、私たちも霊的に組み込まれるのですが、例えば「私はパウロ・スタイルの石の方が・・・・」、「いやケパ(ペテロ)・スタイルに成りたい!」、「アポロ・スタイルを選ぶ!」などと、人間的なイメージをもって、神殿を建て上げようとする誘惑も生じてくるのです。


 今回示されている「のみ」は、単純な説明かも知れませんが、これは神ご自身が用いている「道具」ではない!という事実です。ご存知のように、父なる神が「アダム」を創造した時、如何なる「道具」も用いることなく、ご自身の「御心」を示すべく、直接「御手」をもって造形しました。つまり「のみ」とは、「人の道具」を指し示しています。この人の道具を、私たちの霊的至聖所に当てて削るとは、どういう意味を持つのでしょうか?


主が命じられたことは次のことである。「その中から正味1オメルを量り、代々に渡って蓄えよ。私があなたたちをエジプトの国から導き出した時、荒れ野で食べさせたパンを彼らが見ることができるためである。」
                                                                                                     【出エジプト記16章32節】


 この御言葉の中に示されているように、父なる神の「ご命令」は、非常にシンプル(単純)なものです。この単純な神の「命令」に対して、人間の「意志」や「計画」などを、付け加えて自分流に解釈(判断)しますと、それは霊的に「汚れ」となり、いずれは腐れたマナになります。ですから、私たち自身が捧げる礼拝においても、「素材(シンプルなもの)」を用いる、つまり神の御前に生きた聖なる生贄として、「全て」をシンプルな状態で捧げるべきです。


 ところが、自分がシンプルな「石」の状態から、例えば「私は・・・・のタラント(才能)があり、ここまで神の栄光を現す器になれた!」などと自負し出すと、それは霊的には「のみ」が当てられ、もっと自分(石)を立派に削ろうとする、人間的な「意志」の働きにより、「人の道具」として悪用する、つまり「汚れ」が発生しているのです。


 ということは父なる神は、私たちの人間的な「弱さ」を周知の上で、「のみ」を当てることがないように!と命じていますが、仮に「のみ」を当てた場合には、削がれた状態であってもよいから、そのまま神の御前に再び出ることも、同時に要求されているのです。


聖なる「石(原石)」として


私は、神から戴いた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、各々、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、誰も他の土台を据えることはできません。この土台の上に、誰かが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、各々の仕事は明るみに出されます。・・・・あなた方は、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなた方はその神殿なのです。
                                                                                               【Ⅰコリント書3章10~17節】


 パウロのこの御言葉の中に、今回示されている「第三の規定」の、霊的方向性が記されています。私たちは、神ご自身が直接選んで下さった、シンプルな「石」です。たとえ、私たちが自分ことを、あまり立派に見えない「石ころ」、何の役にも立たない「土くれ」など、見劣りする「器」の如くにイメージしたとしても、父なる神の「御目」からは、貴い「石」として世から選び召し出し、父なる神の「ご計画」の中で、大いなる有用な「器」として、直接父なる神が聖霊を通して、磨いて(聖めて)下さっているのです。


 そういう意味で私たちは、決して人間的な「道具(自分の意思)」、つまり「のみ」を手に持つことがないようにしましょう!「主よ、私を更に砕いて下さり、イエス・キリストという、堅固なる土台に根ざし、決して人間的なものに揺り動かされることが無い、あなたの神の宮として建て上げて下さい!父なる神が私のことを、如何に愛して下さっているかを、私はもっと深く知りたいのです!」と御前に出ることの出来る、「真の礼拝者(生ける石)」として、あなたは召し出されているのです!


 あなたの霊と真による個人的な礼拝と、集合体(エクレシア)として礼拝において、父なる神の「宮」が豊かに確立され、聖霊様の大いなる「導き」の中で、真の礼拝が日々捧げられることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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