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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.16)

                    祭壇に関する第二の規定




あなたは、私のために土の祭壇を造り、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊、牛をその上に捧げなさい。私の名の唱えられる全ての場所において、私はあなたに臨み、あなたを祝福する。
                                                                                                     【出エジプト記20章24節】


「土」の祭壇の意味する霊的奥義
 ご存知のように、「祭壇」を築くそのプロセスは、従来「石」を積み上げる方法による場合が殆どです。しかし今回、父なる神がモーセに命じられている方法は、「土」で築き上げる工法でした。父なる神が、今に生きるキリスト者にも、同様の霊的プロセスを命じているのであれば、それは霊的に重要な奥義を、私たちに物語っているのではないでしょうか!つまり、如何なる「場所」においても、如何なる「時」においても、如何なる「状況」下においても、父なる神は私たちに「正しい生贄」を用意し、聖霊を通して「真の礼拝」を捧げるように導いていること、これが「土」の祭壇の指し示す奥義です。


 彼らが如何なる作製過程で、「土」の祭壇を築き上げたのか定かではありませんが、恐らく粘土質の「土」を水と捏ね合わせて、その後に盛土状にその土を積み重ね、祭壇の形に整え乾燥させたものと推測できます。子牛一頭分を、その祭壇上に載せる訳ですから、祭壇の底面は最低8~10㎡の、面積が無ければならないでしょう。それ故、盛土にする「土」の量も、かなり多くなります。このように、今回のストーリーの中における霊的キーワードは、「土」の祭壇を築くことです。


何故「土」なのか?
 今回用いられている「土」ですが、これは「アダム」を創造した際に、父なる神が選んだ「土(soil)」とは別のものです。それは、語源的には「地(earth)」を意味するもので、文字通り何処にでも存在する、「大地」の一物質です。聖霊様は何故わざわざ、何処にでも存在する「土(earth)」を用いて、祭壇を築き上げるように命じられているのか?これが今回、私たちが知るべき重要な奥義です。


 サタンは、聖霊様が命じられているものとは、別の「祭り(礼拝)」を用意しています。それは、私たちが「真の礼拝」に向かうことから遠ざけ、逆に私たちの「霊」を汚すべく、肉に見える形状の「世的な祭壇」を、何よりも築き上げるように誘いかける、一つの悪しき霊的策略です。しかしイエス・キリストは、スカルの井戸で出逢った一女性に、預言的に語り示された如くに、その尽きることの無い「真の礼拝」は、目に見えない霊の次元から、イエス・キリストという、「永遠の命」に至る活ける水(Living Water)となって豊かに溢れ流れ、聖霊を通して正しい方向に導くものです。そこで私たちは、この「土」の祭壇の霊的奥義について、二つのポイントに絞って聖霊様から教え示して戴きましょう。


 先ず第一のポイントですが、ご存知のように「土」は他の物質、例えば「宝石」や「岩石」と比べて、見るからに劣る物質として映ります。また父なる神は、何故見劣りするような「土」と「塵」から、私たち「人」を創造されたのでしょうか?実に不思議なプロセスです。私たちにとって「土」は、何処にでもあるもの!あまり大したものではない!などと、無意味で無価値なものと把握しがちです。


 ところが父なる神にとっては、「石(宝石)」とか「岩」ではなく、先ず何よりもこの「土」をもって、「祭壇」を築き上げるように命じられていること、この「土」の中に、大いなる神の霊的奥義が隠されているのです。何故でしょうか?それは父なる神が、このように命じられていること自体が、実はある方向性を私たちに示しているからです。


 旧約聖書に多く記述されている御言葉の中に、「悔いた砕かれた・・・・」という表現がありますが、私たちはこの御言葉の持つイメージを、何となく「粉砕された小石」の如くに解釈しないでしょうか?それ故私たちは、自分の霊的姿勢を「頑なな岩」の如くに、イメージ化する傾向にあります。その結果、例えば「聖霊様!もっとこの私の霊を、叩いて叩いて打ち砕いて下さい!」と激しく祈ったり、過激な説教者にいたっては、「もっと砕かれなさい!」と、物理的にも信者の背中を叩くという、常軌を逸した礼拝スタイルに走る場合があります。


 しかし覚えて戴きたいことは、アダム(エバ)の蒔いた「罪(種)」が無ければ、本来の私たちは決して、砕かれるプロセスを経る必要の無きもの、つまり霊的には「土くれ」という、へり下った「器」だったという点です。ですから「罪」の結果、私たちの「霊」の中には「いや、自分は土くれの如きものではない。自分には、もっと優れたものがある。それ故、私はしっかりとした思い(プライド)をもって、神の前に祭壇を築き上げるのだ!」などと、逆に自分の「方法(方向)」で神を礼拝しようとする、霊的な「頑なさ」が生じたのです。


 そうです!私たちの「思い」の中に、神に対して捻じ曲がった(ひねくれた)エゴがあるために、悔いて砕かれていない状況に陥っているのです。ということは、神が求めておられる「真の礼拝」の方向性とは、私たちが如何なる状況下にあっても、「自分は土くれに過ぎないものです。しかし命の御霊なる聖霊様が、常に私に命の息を与えて下さるから、私は生きていられるのです。それ故、私は神の御元に来させて戴きました。私の肉の願いとしては、石や岩で祭壇を築きたいのですが、この地にある土くれをもって祭壇を築き上げます。そして、本来はイサクの如くに、自分が祭壇上に捧げられるべきところですが、あなたが唯一受け入れて下さる、子羊(子牛)の生贄をもって、私の全て(有りのままの姿勢)を、和解の供え物として捧げ尽くします!」と、いつもへり下って礼拝する(神の御前に出る)ことです。


 第二のポイントですが、私たちが「土」の祭壇を築くことを通して、実は聖霊様が、霊的に愚か(頑な)な「私たち」を、完全に練り聖め、生きた聖なる「器」として焼き尽くすという、重要な働きがあるという点です。はっきり申し上げて、私たちが今のまま「祭壇(土以外で築き上げたもの)」上に置かれた場合、父なる神は「私たち」を、聖なるものとは受け留めません。つまり今の「私(あなた)」には、「子羊」のようなに柔和さが欠けているのです。


 しかし、主なる神は一匹の「子羊」を、わざわざ用意して下さり、私たちの「身代わり」として、「土」の祭壇上に置く時、「子羊」ばかりでなく、捧げた「私(あなた)」をも、同時に「聖いもの」として受け入れ、聖霊の「火」を点けて下さいます。聖霊様は、「土くれ」に過ぎない私たちであっても、神が定める本来の「祭壇」へと導き、霊的な「土」をもって築き上げるよう招いて下さいます。確かに「土」は、何処にでもある物質かも知れません。しかし、だからこそ有り難いものです。「土」が至るところにあり、無代価で与えられること、それは神の「恵み」の配慮ではないでしょうか!


私たちは「真の礼拝者」
 私たちが捧げるべもの、それはある面で自分が、イメージする(霊的に築き上げる)「祭壇」の方向性に左右される!この点を是非、常に覚えておいて下さい!私たちは「カインの子孫」ではありません!私たちは「アベルの子孫」として、たとえ如何なる状況下、また如何なる姿勢であっても、自分自身の「全て(最上の生贄)」を神の御前に捧げ尽くす、即ち「土」の祭壇を、何よりも先ず第一に築く民、真の礼拝者です。


 私たちが「土」の祭壇を築き、「全て」を捧げ尽くす時に、主なる神は「私の名の唱えられる全ての場所において、私はあなたに臨み、あなたを祝福」(24節)して下さいます。私たちが「全ての場所」において、つまり私たちの信仰の歩み全般、また仕事場から霊的な祈り場に至るまで、聖霊様の導きにより、「土」の祭壇を丁寧に築き上げる時に、私たちという「土の器」を、神の大いなる「宮(イエス・キリストのみ体)」の要石、そして至聖所の重要な建材として用いて下さる!という、偉大なる神の祝福に組み込まれるのです。


 主イエス・キリストの聖なる臨在の時、また麗しい訪れの時に、私たちの「礼拝(祭壇)」が、父なる神が定めた「土」をもって築くという、真の礼拝の方向で、聖霊様が更にあなたを聖めて下さることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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