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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.15)

                祭壇に関する第一の歩み(規定)




あなたたちは私について、何も造ってはならない。銀の神々も金の神々も造ってはならない。
                                                                                                     【出エジプト記20章23節】


「祭壇」の意味する霊的概念
 私たちが、父なる神が「御住まい」とされる、奥深い「至聖所」へと進み行く際には、最終的に私たちが「祭壇」上に、必ず捧げなければならない、「全焼の生贄」があります。実は、神が定められているこの「祭壇」は、私たちが為すべき霊的な務めである、信仰の「歩み」を指し示しています。


 そこで「祭壇」とは、如何なるものであるのか?私たちはこの点について、先ず学ぶ必要があります。他の宗教においても見られる「祭壇」は、大抵の場合「生贄」を捧げる、特別な場所として設けられますが、新約時代に生きる私たちキリスト者は、別に目に見える「祭壇」は、必要無きものである!としか考えていませんから、わざわざ旧約時代の如くに、「石」を一つ一つ積み上げることもしません。


 しかし明らかに聖霊様が、私たちに対して命じられることは、私たちの「霊」の只中には、必ず「祭壇」が据えられている・・・・、そして私たちは、自分の中に据えられた霊的祭壇が、如何なる状態にあるのかを、常に注意深く見守り、尚かつこの「祭壇」を、聖霊様の導きにより、日毎に建て上げて行く!ことが求められているのです。もしそうでなければ、私たちの「霊」に対して、常に外側から悪しき「思い」や「誘惑」、そして「試み」を働きかけるなど、様々な霊的攻撃によって、私たちの霊的祭壇が破壊されることになります。それ故、この「祭壇」に関しては、私たちが知るべき基本的要素を、聖霊様から正しく教え示されることが、先ず要求されるのです。


 「祭壇」とは簡単に説明するならば、聖なるフィールドを現しています。この「聖なる」という言葉は、私たちは「聖く麗しいもの」、つまり「汚れが全く見当たらない状態」として把握します。しかし「祭壇」に関しては、この「聖なる」という形容詞が付加したとしても、それは三次元的には「きれいで、汚れ一つ無き美しい状態(場)」とは、絶対に映ることの無い状態(有様)です。つまり「祭壇」全体が、様々な動物の流した「血潮」に彩られ、鮮血色である「赤色」と、どす黒い色に覆われ、生臭い血の臭いと、肉の腐ったような「死の臭い」が充満する、いわゆる殺戮のフィールドです。ところが私たちにとって、おどろおどろしく見える「祭壇」の状態が、父なる神の視点からは、「聖なるフィールド」と映るのです。


 具体的に、「祭壇」の用途について説明するならば、第一に「子羊(牛、ヤギなどの小動物も含む)」を贖いの生贄として、殺す(屠る)フィールドです。第二に、私たちの「罪」を捧げ尽くすフィールドです。これは第一の、「子羊」を贖いの生贄として屠るという目的から、更にその意味(意義)が深められるものです。私たちの「何」を贖うために、「子羊」という貴い命が犠牲にされるのでしょうか?それは、私たちの「罪」の贖いのためです。本来の私たちは、アダム(エバ)の犯した「罪」が無ければ、「祭壇」上に罪の贖いとして、「子羊」を捧げる必要がありません。


 第三に、これは時々私たちが忘れることですが、神との「和解」の場を指し示しています。私たちの「罪(霊的負債)」は、数え切れない程のものです。又その負債は、霊的債権者なる神にとって、到底忘れることの出来ないほどの、「重荷」になっているはずです。ところが私たちの「主(父なる神)」は、御子(イエス・キリスト)という、「贖いの子羊」の貴い「犠牲(生贄)」により、それら全ての「負債」を、イエス・キリストの「救い」の御業故に、思い起こすことも無く、逆に帳消し扱いして下さるのです。私たちの場合でしたら、「あなたが先に謝れば、赦してあげましょう!」という理屈で、様々な和解協議を経る形式を採りますが、父なる神の「和解」は、あくまで一方的な憐れみによるものです。


 それ故に、私たちが「祭壇」に進み行く際には、「祭壇」の持つ三つの霊的概念を、常に意識しておく必要があります。つまりイエス・キリストが、常に私たちの「身代わり」として、ご自身の貴い「血潮」を注ぐ(流す)場が、この「祭壇」上である!ことを。その結果私たちは、大胆に信仰を働かせて、私たちの「罪」を祭壇上に捧げ尽くし、神の御前に私たちの「全て」を、生きた聖なる供えものとして表明するのです。そうすれば父なる神は、御子(イエス・キリスト)の十字架の「贖い」により、いつも私たちのことを、快く受け入れて下さるという、「和解」の場が提供されるのです。


第一の「歩み(規定)」
 私たちの「霊」は本来、神の御前に「何か」を捧げようとする、善き思い(善なる意志)が働きます。しかし「祭壇」に関しては、モーセを通して私たちにも命じられている、重要な「ステップ」が幾つかあります。先ず、今回のテーマである第一の「歩み」は、「私のために、いかなるものも造ってはならない!」という「命令」です。


 「私(神)」に関することは、一切の「造る(何かの行動も含む)」ことを禁じている、非常に厳しい内容のものです。ここで、覚えなければならないことは、「他の神々」を造ること、つまり偶像の製作を禁じている命令が、確かに補足禁止事項として、同時に命じられていますが、この第一の「歩み」に関する禁止事項は、あくまで「神ご自身」に関することは、一切の造る行為を禁止している!という点です。「祭壇」に捧げる唯一のもの、それは神ご自身が既に決定しているから、私たちの側から何か考えたり、何かを造る必要がない!という、単純な「御心(ご意志)」に基づいているのです。


 アダム(エバ)が「罪」を犯した際に、実はこの「造る」という人間的動作が、父なる神の定めた「決定権」から、如何に逸脱しているかを物語っています。彼らは、自分たちの「罪」の現れを隠すために、イチジクの「葉」を採り、何らかの方法(人の手)により、「朽ちる(枯れる)覆いの衣」を作りました。しかし彼らの「行い(作ること)」は、神の方法に先んじる行為、つまり神の忌み嫌う「罪」から生じる、「肉の行い」だったのです。


 実は父なる神は、「罪」に汚れた彼ら(私たちも含む)のために、前もって唯一の「生贄(子羊の命)」を用意しておられたのです!再度繰り返しますが、「祭壇」に捧げるべきものは、「唯一の子羊(イエス・キリスト)」です!それに対して「人」は、子羊も確かに必要ではあるが、何か「別のもの」をも、捧げたらよいのではないか?などと、様々に「つくる」行為に先走りする、霊的愚かさがあります。


私は神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。私は、キリストと共に十字架につけられています。
                                                                                                          【ガラテヤ書2章19節】


 この御言葉の中でパウロは、「祭壇」に捧げるべきものは、「たった一つ。それは、子羊(イエス・キリスト)の贖いだけである!」と主張しています。つまり彼は、子羊の「贖い」の御業という不変の事実によって、私(パウロ)は生かされているに過ぎない!、そして本来の私は、キリストと共に「十字架」上に死んでいる。それ故に私が生きている最大の「理由」は、ただ神の御子(イエス・キリスト)に対する「思い」を一切、「祭壇」の御前にて表明(礼拝)することである!と、このように信仰告白しているのです。


 ところが私たちの場合は、アダム(エバ)の「罪」の結果、「霊」の中に金や銀があるために、「唯一の子羊」ばかりでなく、それらの金や銀をもって、同時に捧げようとする誘惑に駆られるのです。例えばそれは、次のようなケースに起こります。神の「恵み」により、大いなる勝利を手にした時、信仰的に「奇跡」を体験し、更なる信仰の飛躍的成長を遂げた時など。ところが、「自分」というものが先走りした場合に、悪しき霊(思いも含む)が「今がチャンス!」と駆け寄り、神が語りかけるかの如くに、あなたの「霊」に甘い声でささやくのです。「あなたは、もっと神に喜ばれることを為しなさい!神に喜ばれることを、あなた自身で探り求め、それを確立し(造り上げ)なさい!」と。


 すると私たちは、「よし、私は頑張ります。あなたのため(またある時は日本のため)に、全てを捧げて働きます!」などと、自分の意思を宣言します。この種の表明は、純粋な祈りから生じる場合もあるでしょう。しかし私たちが、神の御前に捧げるべき「もの」を、霊的に違えてしまったら、悪魔サタンを逆に喜ばせ、父なる神が求めておられる、霊的奥深い「至聖所」とは逆の次元(肉の祭壇)に、私たちは「自分(自己中心から生じるもの)」を捧げることになるのです!


 私たちが求めるべきものは、唯一の子羊(贖いの生贄)、イエス・キリストご自身です。そうです!私たちは常に、「子羊(イエス・キリスト)」だけを、祭壇上に捧げ尽くすのです。この「イエス・キリスト」故に、私たちの「罪」は完全に贖われ、父なる神が用意しておられる、「和解」の恵みの座に、ひれ伏すことが出来るのです。「主よ、この私には何もありません!それ故に、この私の全てを祭壇上に置きます。子羊イエス・キリストの、貴い贖いの血潮をもって、この私を覆って下さり、生きた聖なる捧げものとして、完全に焼き尽くして下さい!」という、悔いた砕かれた霊的姿勢が、聖霊様によって確立されることが、私たちには求められるのです。


 「贖い」の子羊(イエス・キリスト)は、今のこの瞬間も貴い「血潮」を注ぎながら、全ての人々を「救い」に導き、あらゆる「病い」から解放し、この世の様々な「苦難(悲しみ)」などを一掃する(贖い出す)、唯一の「救い主」として働いておられます。私たちも常に、この唯一の「救い主」を信じて、「全て」を明け渡しながら、私たちの前に用意される「祭壇」に進み行き、感謝と喜びを携えながら、「イエス・キリスト」を捧げて参りましょう!


 主イエス・キリストは、昨日も今日も、明日(将来に渡って)も共に居て下さり、あなたを霊的に励まし、あなたを何にもまして、一番愛して下さる「真の羊飼い」です。真の羊飼いであるイエス・キリストが、失敗だらけの羊である私たちを、緑豊かな牧草地へと導き、憩いの地で親しい「交わりの時」を、満ち溢れるばかりに用意して下さることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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