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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.14)

                           神の御顔を見る




その夜、ヤコブは起きて、・・・・ヤボクの渡しを渡った。・・・・その時、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブと腿の関節を打ったので、格闘しているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福して下さるまでは離しません。」「お前の名は何と言うのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたの名前を教えて下さい」とヤコブが尋ねると、「どうして、私の名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。
                                                                                                        【創世記32章23~31節】


人を恐れる「ヤコブ」
 ご存知のように「ヤコブ」という名は、その名の持つ意味の通り、古き肉的(人間的)な名前です。また彼の両親も、このような「名前」を付けるとは、決して想像もしていない程の、いわゆる敬遠される名前です。「ヤコブ」とは、ヘブル語では「アケブ」と言い、「かかと」を意味する言葉です。ヤコブは出生時に、双子の兄(エサウ)の足の「かかと」を、しっかりと握り締めながら、母の胎から出てきました。まるでそれは、「兄」と先を競い合うかの如くに、「自分は兄には負けない!」という、弟としての自意識が強く現れ出たものでした。


 今回のストーリーの中における彼の霊的性格は、新しい「名(イスラエル)」を聖霊様から与えられる程に、麗しい品性を備えた人物に変革されています。ところが「イスラエル」とは、本来ヘブル語で「神と争う」という意味で、未だに「争う(競い合う)」イメージが、彼に強く現れ出ているではないか!と、私たちは錯覚しがちですが、霊的に「イスラエル」という言葉は、「神が争って(闘って)下さる!」という、素晴らしい意味をも含んでいるのです。


 ヤコブはこの時点において、非常に大いなる「恐れ」を抱いていました。彼は「肉の次元」に生き、「肉の計画」を強固な意志で、貫徹することの出来る、いわゆる人間的に見れば「強者」でした。故郷を追われる逃亡者ではありましたが、ハランの地において成功し、この時点では兄(エサウ)以上の祝福と、「力(兵力、経済力)」に満ち溢れていますので、何も恐れることが無いはずです。しかし彼の「心」の中には、兄に対する罪責感から、兄の恨み(復讐)を恐れる訳です。


 自分の「罪」を知る者は、必ず罪がもたらす「報い」、つまり「仕打ち」や、蒔いた種の「刈取り(結果)」を恐れるようになります。彼は「兄」のことを思い出す度に、「恐れ」にさいなまされ、冷や汗が多く出るのでした。つまり彼は、「人の顔」を恐れて生きているのです!私たちの一般生活の中においても、一番多く気にかけていることが他者からの視線、つまり「人の顔」ではないでしょうか。しかし覚えて戴きたいことは、罪を犯す以前の「本来の人(アダム)」は、「上(天)」を見上げる者として創造されました。即ち、常に父なる神の「御顔」を見上げる者として、私たちは召し出されているのです!ところが、アダム(エバ)の犯した「罪」故に、私たちは「上」ではなく「横」の関係、つまり「人の顔」だけを気にしながら、生きるようになりました。
 
 一見ヤコブは、何一つ「恐れ」を抱くことが無き、力ある者でしたが、この時点においての彼は、常に「兄」の顔が浮かんでは身震いする、そんな弱き者に成り果てていたのです。ですからヤボクの川を渡る時にも、自分が「しんがり」となって、敵(エサウ軍)の奇襲を見張るという、用心深さに見事に現れ出ています。そして無事に全員が渡り終え、自らも最後の者として渡り終えた、まさに「その時」、彼の背後から近づく人物が出現したのです。


突然出現した「人物」との格闘
 不審な人物が急に出現したにも関らず、この時点でヤコブは全く恐れていません。そして彼は、この不審者と格闘し始めたのです。ヤコブにとって、この不審者な人物の出現は、「兄(エサウ)」の出現と比べて、恐れるには足りないことでした。何と彼はこの不思議な人物、つまり神ご自身と、夜通し格闘し続けることになります。最終的に彼は、神の御手によって足の関節をはずされ、両足で立つことの出来ない程、強力に打ち負かされる訳ですが、それでも彼は「負け」を認めようともせず、なおも神にしがみついて、必死に闘いを継続しようとしました。


 恐らく彼は、自分の中にある「肉の次元」が、次第に弱り果てていく中で、自分が闘っている相手が、人の肉体を遥かに優った、「霊の次元」に生きる者であることを悟り、しかも相手の中にある「力」が、自分の中にある「肉の次元」を、次第に覆い始めていることに気付き、それ故に必死になって、しがみついたものと思われます。つまり「もし自分が両手を離したら、この方は自分の元を離れて、立ち去るかもしれない・・・・。そうなってしまったら、自分の中にある最大の恐れは、依然として残ったままになる。それよりも、自分を打ち負かしたこの方に、私は寄りすがるしかない!」などと、今度は「人」ではなく、「神」の主権を畏れる者になっていたのです。


 ですから彼は、とっさに「どうか去らないで下さい!あなたが私を、本当に祝福して下さるまで、私は絶対にあなたを離しません!」と訴えた(懇願した)のです。シナイ山にて神と会見したモーセ、そして「真の救い主」を、ひたすら待ち続け、ようやく立ち会うことの出来た、盲人バルテマイも然り。彼らは共通して真の「贖い主」、即ち全知全能の主権者(父なる神)の「御顔」を必死に祈り求め、神の祝福にあずかることに命を懸けたのです。


新しい名前を呼んで下さる方
 すると神は、「お前の名は何と言うのか」と、実に不思議な「問いかけ」をもって、打ち負かしたヤコブに尋ねたのです。主なる神は、私たちの「全て」をご存知の方です。ですから「名前」などを、いちいち尋ねる必要はありません。ところが父なる神が、私たちの側に近付いて下さる際には、私たちの古き「罪」に染まった、人間的な名前であっても、私たちのことを再確認すべく、あえて「名」を問い質されるのです。


 そこでヤコブは、「私の名は、かかとという意味を持つ、ヤコブと申します。あなたと闘い続けても、依然として負けたくないと威勢を張る、そんなつまらないヤコブです。」と気弱に答えました。それに対して神は、「否!あなたは確かに、ヤコブと名付けられた者であった。しかし今は、私の次元(御元)に来るために、必死に願い求めるところまで、霊的に砕かれた者である。即ち、あなたはもう、肉の次元で闘い続ける、かつてのヤコブではなく、この私(神)と闘い続けることで、霊の次元に生きる者、つまりイスラエルという、聖なる名を与えられた者である!」と宣言されました。


 覚えて戴きたいことは、私たちもヤコブ同様に、「ヤコブ(肉に生きる者)」と、「イスラエル(神の次元に生きる者)」の狭間で、信仰生活を送っています。そして殆どの場合、私たちは「肉の次元」を頼みとしながら、肉の闘いに明け暮れる、そんな弱さがあるのではないでしょうか。私たちが「ヤコブ」という、古き名前で闘い続ける限り、神の「ご計画」は、私たちの「霊」の中に完成されることはありません。しかし父なる神は、そんな弱き私たちを、ヤコブ同様に霊的に取扱うべく、私たちの中にある霊的な「腿つがい」をはずされるのです。「その時」が神の直接的な霊的介入、即ち神の御手が触れて下さるという、絶好の機会(チャンス)です!


 「イスラエル」という名前は、ヤコブのみに対して与えられた名前ではなく、イエス・キリストを信じる、全てのキリスト者に対して、平等に与えられている、大いなる祝福の名前です。「イスラエル」とは、イエス・キリストが私たちに対して、完全なる「贖い主」として、天上から素晴らしい「新しい名前」を用意して下さる!こと、そしてこのことは神ご自身が「ご計画」の中で、あらかじめ進めていて下さることを意味します。


 ヤコブは臨終の際に、明確に告白しました。「私はかつて、自分が、自分の思い(願望、欲)で闘ってきた!と錯覚していた。しかし今は、はっきり(神に)申し上げることが出来る。即ち、神ご自身が私の全てを取扱い、神のご計画の中にあって始めて、私は大いなる神の祝福を授かるという、恵みにあずかったに過ぎない。神ご自身が、この罪深き私のために、敵(サタン)どもと闘い続けて下さったが故に、この私には何の誇るところが無い!ただ神の恵みによって、この私(イスラエル)は生き永らえ、そして神の御元(天)に今、喜んで旅立った行くのだ!」と。


ペヌエルを見る
 「ヤコブ」という古き名前から、新しい名前に変革されたイスラエルは、自分が格闘した、名も素性も分からぬ者が、「神」ご自身であることを悟りました。そして自分が直接、神の「御顔」と自分の「顔」を合わせて、会見(交わり)することが出来た、その大いなる神の取扱いを記念して、その場所を「ペヌエル(神の顔)」と呼ぶことにしました。


 この時点において、彼の「霊」を覆い尽くしていた、人間的な「恐れ」は消えうせ、神の「御顔」が彼の「全て」を覆い尽くしていたのです。その明確な証言(事実)が、33章において記述されています。それは彼の兄(エサウ)に対する、次の表明です。「兄上のお顔は、私には神の御顔のように見えます。」(10節)この時の彼は、例えばエサウの「怒り」を買い、仮に殺されるようなことになったとしても、「決して悔いはない!何故なら私は、ペヌエルを見ることが出来たから・・・・。」と断言できる程に、もはや神の次元に生きていたのです。


 私たちの生きる「この世」は、私たちの予想を裏切る程の「勢い」をもって、益々悪しき「暗闇」が覆い尽くしていくことでしょう。しかし私たちは、恐れる必要はありません!私たちは、イエス・キリストの十字架の「贖い」により、新しい「天の名前」、即ちイスラエルという霊的名前が、一人一人に付与されているのです。


 私たちはこのことを信じて、神の「贖い」と、神の「ご計画」の麗しさに服しながら、私たちの中にある霊的な「ヤコブ」を、十字架上に捧げ尽くしましょう。「主よ、私の計画ではなく、あなたのご計画を進めて下さい!あなたのご計画に、私は信仰をもって期待し従い続けます!それ故、私の全てを聖めて下さい!私の計画を、全て十字架に捧げます!私の中にあるヤコブを捧げます。新しい名前、イスラエルの故に、あなたのご計画を見たいのです。あなたが闘って下さる、その麗しい神の次元の中に、私は全てを委ねます!この世の暗闇を打ち負かす程の、イエス・キリストの救いの栄光を、この私の人生にも切り開き、そして照らし続けて下さい!」という、信仰の宣言(告白)の祈りをもって。


 あなたに授けられている、新しき名「イスラエル」の通りに、あなたが神の「勝利」の行軍の中で、益々霊的に祝福され前進し続けられますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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