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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.12)

                神の備えを受け取りなさい!




御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、私に捧げることを惜しまなかった。」アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物として捧げた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えて下さる)と名付けた。
                                                                                                        【創世記22章12~14節】


「主の備え」の持つ言葉の真意
 私たちは、ある一つの「命令」を下された場合、それが受け入れられるレベルの内容であれば、「はい!分かりました。」と即答できることでしょうが、この時のアブラハムの如くに、とても受け入れられないレベルに関しては、「Yes!」とも「No!」とも、決断しにくい弱さがあります。確かにアダム(エバ)の「罪」の結果、私たちは「善」と「悪」の二択を、自由に選択出来るようになったとは言え、これは自分の「理屈」に適うレベルにおいてのみ為し得る能力です。


 ところが将来的に、「もしこのことが、・・・・なったらどうしよう?」などの「恐れ(不安)」が生じた場合に、私たちは選択出来ない状況に陥ります。この時のアブラハムは、私たちには到底想像出来ない、「葛藤」の最中にありました。しかし彼の最終決断(行動)は、愛する息子(イサク)を伴い、事情を全て隠したまま、神に命じられた通りに「山」に登ったことです。


 「主の備え」という言葉は、果たして私たちに対して、大いなる信仰の希望を与えているのでしょうか?例えば「何かの問題が起きたとしても、主なる神は必ずあなた方の、心配や恐れを前もってご存知であり、あなた方が行く先々において、既に備えていて下さる!だからあなた方は前進しなさい!」などのメッセージに見られる、ある面で私たちの信仰に対して、「チャレンジ」を要求する内容のものは、かなり多く聞かされていることでしょう。


 この種のメッセージは、決して誤ったものではありませんが、覚えて戴きたいことは、「主の備え」の持つ言葉の真意は、私たちの三次元的思考レベルからは、決して理解できる次元には無い点です。この時のアブラハムの如くに、自分の力では不可能と思える状況、或いは「感謝」の一言も出ない試練の時にも、ある重要な決断をもって、主なる神が臨在される「神の山」に登り、神の御前に出ることの方が、この言葉の持つ奥義を理解し易くなります。


二種類の「備え」
 ところで、私たちの信仰の歩みには常に、二種類の「備え」が提供されていることを、あなたはご存知でしょうか?先ず第一の「備え」、これは他の宗教が説くレベルのもの、例えば「毎日お供えをしなさい!」などと、人間の「業(肉の行い)」に対して、積極的に要求するものです。彼らは決まり文句のように、「供えものを多く献げなさい!さもなければ、神はあなたを祝福することが出来ません。逆に、ご先祖様からの祟り(呪い)が降りかかりますよ。」などのマインド・コントロール説法を語ります。この第一の「備え」は、「人の備え」と言います。「これさえしておけば、何とか安心できる」などの、人間の「不安(恐れ)」という弱さにつけ込んで来る、悪しき教えを基本とします。


 しかし第二の「備え」は、神(全能の父なる神)の側からの、一方的な「備え」です。つまり私たちの「行い(業)」がどうであれ、神が与えようとしている「備え」があることを、私たちが聖霊を通して「知り」、それを受け取ることによって、無代価で与えられるものです。父なる神は私たちのために、いつも天上から、私たちが必要とするもの「全て」を、惜しみなく与えたい!と欲しておられます。それ故に、私たちに必要な姿勢(決断)は、神の備えを受け取るか否か?ということです。自分の「行い(業)」によって完成しようとする、「人の備え」に立つ者は、いつまで経っても曖昧な判断しか出来ません。


何もしてはならない!
 実際父なる神は、御使いを通じてアブラハムに対して、重要な「ご命令」を下されました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。」(12節)の御言葉の中にある「何もしてはならない。」、これが今回のストーリーに示される、重要な奥義(キー・ワード)です。


 私たちは「至聖所」に行く際にも、次のような霊的弱さが生じます。「主よ、いつもでしたら私は、感謝と平安に満ち溢れ、喜びをもってあなたの大庭に行くことが出来ます。しかし今は、どうですか?私は非常に惨めな思いに溢れるなど、大きな試練の中にあります。とてもじゃありませんが、信仰と希望と愛を捧げることが出来ません。それでもあなたは、聖所に来なさい!と言われるのですか?その前に、今のこの私に降りかかる、問題の全てを解決して下さい!」と。実はこの種の「祈り(表明)」は、全てのキリスト者が共通して告白するものです。私たちが思いの面で、「・・・・しなけれぱならない!」などの、人間的「行い(業)」を完成しようと欲する概念に縛られますと、例えば無理して礼拝に出席するなどの「人の備え」を、聖所に持ち込むことになるのです。


 「何もしてはならない!」という命令は、一見「全て」を束縛する厳しい言葉として、私たちは把握しがちです。しかしこの「ご命令」は、神が私たちの「弱さ」を全てご存知の上で、霊的な励ましとして命じているものです。「あなたがもう、何もする必要はないのですよ。あなたが如何なる状況にあっても、素直に聖所の奥深くへと進み行きなさい。そして有りのままを、私に示しなさい!」と。


 私たちはアダム(エバ)の「罪」の故に、「何か」をすることにおいて、非常に得意とする生き方になりました。「何か」をすることで、神を喜ばせようとする「思い」、「何か」をすることで、自分を納得させようとすること、これらは全て「人の備え」です。


 続いて父なる神は、「命令」に従順したアブラハムに対して、「私の前に素直に出て来た、あなたの全てを受け入れる!」と語られました。その瞬間に彼は思わず、「感謝」の叫び声を上げました。しかし未だ一つの「心配」、即ち「イサクは献げる必要が無くなった・・・・が、献げるべき生贄は、どう工面したらよいのだろうか?」という思いが残っていて、辺りを見回しました。すると、既に「神の備え」が存在しているのを、アブラハムは見出す(確認する)ことになります。ここに第二の奥義が示されています。


 「何もしてはならない!」とは、決して「怠惰な行動」を勧めている言葉ではありません。私たちは人間的な「行い(業)」によって、神の「ご計画(命令)」を、自分の側から完成する必要が無く、逆に私たちに要求される霊的姿勢(行動)としては、アブラハムの如くに「神の備え」を確認する!ことです。つまり私たちには、人間的な備えを一切する必要も無く、むしろ単純(ストレート)に、主なる神が臨在される「大庭(神の山)」に進み行く時に、「全焼の生贄」が用意されるのです。


 私たちが為すべき信仰の「行い」は唯一つ、それは主なる神が臨在される、神の「聖所(山)」に常に登ることです。そうすれば、神が既に用意して下さる、「神の備え」を受け取る(確認する)という、大いなる天上の祝福にあずかれるのです!あなたの将来にあること(必要なもの)は、既に父なる神がご存知です。全能の父が母親の「胎」の中に、「あなた」という命を創造した時から、あなたの人生の全てに渡って、神が責任をもって導いて下さる限り、あなたは心配する必要はありません。


 私たちの「人生」を振り返ってみた時に、主なる神の為される「恵み」の数々は、この時の「雄羊」以上の備えとして、各々に対して用意されていたことを、私たちは信仰を通して確認しています。それ故私たちは、「先(将来)」にあるものが、「不安」や「悲しみ」、そして「恐れ」と「迷い(悩み)」などを描くのではなく、「主なる神の豊かな麗しい臨在が、いつも私の前に用意されているから、私がそこに進み行き、主の深い愛にあずかる時に、必ず主なる神は、私たちに必要な備えを、約束の賜物として与えて下さる。私は受け取るだけでよいのだ!」という、信仰の行動を為すだけでよいのです。


 あなたが「神の備え」を受け取る秘訣は、アブラハムの信仰の行動と同様に、たとえ目の前の状況がどうであれ、「神の山」に登り続け、神の祭壇の前に「あなたの全て」を捧げ尽くす(表明する)ことです。あなたの信仰の歩みに、「神の備え」が豊かに現され、あなたが確実に神の祝福を受け取っていくことを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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