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信仰の完成(No.23)

                                罪の告白




その日の24日に、イスラエルの人々は集まって断食し、粗布をまとい、土をその身に振りかけた。イスラエルの血筋の者は異民族との関係を一切絶ち、進み出て、主の前に向かって罪を告白し、ひれ伏していた。
                                                                                                   【ネヘミヤ記9章1節~2節】


「罪」を悲しんでいますか?
 「仮庵」において24日間、感謝の生贄を捧げ終えた時、ネヘミヤは断食の布告を宣言しました。即ち「とにかく食を絶ち、神の御前に出ようではないか!」と。すると誰が言い出したのか分かりませんが、イスラエルの民は進んで粗布を身にまとい、頭に灰を振りかけて断食祈祷に入ったのです。


 今回の記事から、私たちが学ぶべき第一の奥義、それは私たちが真剣に、自分の「罪」を悲しんでいるか?という点です。「悲しみ」とは、英語でsorrowと言い、これは「嘆き」のことです。


 ご存知のようにイスラエルの民は、ある重大な「罪(霊的犯罪)」を犯しました。それは私たち(アダムの子孫)も同様ですが、神との霊的離婚のことです。罪を犯した結果、彼ら(アダムとエバ)及び私たちは、神の御前に進み出ず、自分の「罪」を隠す、即ち別のもの(朽ちる衣)で覆うという、言わばカモフラ-ジュを試みたのです。


 このように主なる神の御前に、堂々と(ストレ-トに)立つ(進み出る)ことの出来ない状態(有様)、これは全て「罪」を現しています。神の「御心」から、また神の「ご命令」から離れること、つまり自分の「肉」の判断を頼みとして、自分自身の力で立つ(生きる)こと、またそれが故に、「この世」と妥協した自分、そして最終的に神に対して、妥協した自分を正当化すること、これが「罪」の持つ悪しき特徴です。


 例えば、私たちの「祈り」の項目の中に、一番大事なポイントとして、この「罪」というものが、私たちの信仰生活にも、しがらみとしてまとわり付いてくること、又それに対して私たちが、霊的に格闘している訳ですが、いつの間にか妥協している部分が無いかなど、実際的な「罪」の問題に真剣に取り組み、「(今の自分を)悲しんでいるか?」という点です。


 本来であるならば私たちは、定期的に「断食」祈祷するなどして、「今の自分」を霊的に点検する必要があります。神の「その時」が、もう目の前に迫っているからです。しかし聖霊様は、御子イエス・キリストに対して、今も訴えかけています。「王の王なる方よ、ちょっと(もう暫く)お待ち下さい。まだ出迎えの整っていない、乙女たちが居ますから・・・・」などと。


 すると御子は「分かった!だがもはや、その時は避けられまい。偽りの花婿が台頭するに当たり、私が(ここで)座っている訳には行かない。それ故聖霊なる方よ、いよいよ断食祈祷を宣告し、彼女たちに身支度を整えるよう、最後のメッセージを発しておくれ!」と、最終勅令を与えます。


「粗布」と「灰(土)」で身を覆う
 続いて第二の奥義は、「粗布」を身にまとい、「灰」を振りかけるとは、如何なる意味を持っているのでしょうか?ご存知のように「粗布」とは、霊的雛形として、アダムとエバが身にまとった、イチジク桑の葉(朽ちる衣)と同義語です。


 続いて「灰(土埃)」を振りかけるとは、自分の「頭」に振りかけることを裏返すなら、この「頭」でっかちな部分が、霊的に高ぶっている様(遜りが無い状態)を、逆に打ち砕かれた様(遜った姿勢)へと造り変える、神の「取扱い」に服すことを意味しています。「頭(こうべ)」を垂れて、神の油注ぎを受ける前に、自分自身が如何に「罪」に汚れた者であるかを、素直に示す(神の御前に出る)こと、これが霊的な「灰」をかぶることです。


 ネヘミヤを通して為された、この時の聖霊様の大いなる取扱いにより、イスラエルの民は真実の「悲しみ(霊的悔い改め)」へと導かれました。そして最終的には、上よりの「安息」が注がれることにより、彼らは真心の「歓喜」を、神に対して表明したのです。そうすることで初めて、自分の「肉の力」によってではなく、聖霊様を通して神の御前に「立たされている!」ことを、彼らは気付くことが出来たのです。


 そして遂に、仮らは「この世」との関わり、特に異邦人との姻戚関係を絶つことを、真摯に反省したことを表明するべく、神の御前に出る段階にまで砕かれました。今後私たちは、日本民族の救いのために、益々「祈り」へと導かれることでしょう。


 この「日本国」という経済大国の中において、日本人が如何なる状態にあるのか、聖霊様は常に問いかけています。「あなた方も、この世との霊的関わりを一切絶ち、真摯に父なる神の御前に出られるか否かを点検し、霊的な粗布を身にまとい、主なる神の油注ぎを求めて、頭に霊的灰をかぶるという、謙虚な花嫁としての訓練を受け続けなさい!」と。


 そうすることで初めて、日本の民の中にも聖なる「動き(Movement)」が起こり、「神の前に、この世の全てを捨てます。ゼロになって出ます!」と宣言する人々が、多く興されることでしょう。この「日本」に期待しましょう!聖霊様を通して為される、大いなる霊的改革と「宮(神殿)聖め」が、私たちの日々為す「祈り」によって実現します。


 悔いた砕かれた姿勢をもって、あなたが主なる神の臨在を求め、常に御前にひれ伏し、謙虚に祈り続けることが出来ますように。また聖霊様の聖めの炎の中で、着実に前進することが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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