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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.11)

                  はい、私はここにおります!




これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物として捧げなさい。」
                                                                                                            【創世記22章1~2節】


神が要求するものとは?
 神の「大庭」、それは神が豊かに臨在される、「聖所」を示しています。しかし、この「聖所」の奥深くへと、更に進み行きますと、「至聖所」と呼ばれる場、即ち最高の(際立った)聖なるフィールドがあり、その「至聖所」において、私たちもアブラハム同様に、最後の霊的テストを受けることになります。


 父なる神はアブラハムに対して、最後の「信仰の試験(試み)」を課した時、それは一方的な「命令」の類、例えば王(君主)が部下(臣下)に対して、「勅令」を発するかの如き、大いなる(恐れ多い)発令ではありませんでした。どちらかと言えば、アブラハムのことを「最愛の友」と呼ぶ程に、麗しい臨在をもって優しく語りかけたのです。「我が友アブラハムよ、いるかい?」と。それに対してアブラハムは、いつも通りに「はい、主なる神よ。私は、ここにおります!いつものように、あなた様の御心をお示し下さい。」と答える具合。


 今回のストーリーの中で、アブラハム同様に、実は私たちに対しても、父なる神が要求しているものがあることを、私たちは改めて知る必要があります。果たして父なる神は、私たちの「何」を求められるのでしょうか?私たちは常識では、相手の愛に対して自分の愛で応えたり、相手の「犠牲」には、やはり自らも何らかの「犠牲」を払うなど、等価値のものをもって、相手に誠意を示そうとします。しかし父なる神に対して、果たしてどれ程のものをもって、御前に出ればよいのか?私たちには知る術がありません。


 それが例えば、今回のアブラハムの場合のように、自分が一番大事にしている(愛している)ものを、父なる神が要求されるとしたら、私たちは「え!そこまで神は、私の信仰を試されるのですか?とてもじゃありませんが・・・・」などと殆どのキリスト者が、神の御前に出ることを ためらいます。しかし、ここにサタンの仕掛ける律法主義の罠に、私たちも簡単に陥る危険性があるのです。覚えて戴きたいことは、父なる神が私たちに要求しているものは、決して私たちの三次元的思考から生じる概念、例えば「それは物なのか、それとも信仰なのか?」などと、様々に思い悩むレベルには無いということです。


 父なる神が聖なる臨在をもって、私たちと「親しい交わり」の時を持つ場合、決して私たちの側からの「もの(献げ物)」や「犠牲」、そして「行い(業)」を要求される方ではない!このことを先ず覚えて下さい。父なる神が、一番私たちに対して望まれることが、一体「何」であるのか?この点に留意しながら、今回のストーリーに示される、アブラハムと父なる神との、「言葉」のやり取りから、霊的な奥義を学んで参りましょう。


信仰が試される時とは?
 アブラハムは幾多の「失敗」を経て、ようやく神の「大庭」の奥深く、即ち父なる神が臨在される最高の聖所(至聖所)に入るという、最後のテストを受けることになりました。彼はこの時点で、「たとえ、父なる神が私たち(アブラハム一族)を、如何なる状況に導かれたとしても、神はそこを必ず、ご自身が住まわれる、麗しい聖所へと回復して下さる!」ことを信じた結果、妻(サラ)との間に、信仰の「実(イサク)」を授かり、その約束の子が健やかに成長しっつあるという、言わば祝福の絶頂期の最中にありました。


 つまり、彼にとってイサクの存在は、「これこそ、私たちの待ちに待った、子孫繁栄という約束の成就である!」と自負する(喜び楽しむ)ほど、彼の「最愛の子」でした。しかし、ここに彼の「信仰」を試される、霊的分岐点があるのです。


 例えば私たちの殆どが、神の臨在が濃厚に満ちている、リバイバル聖会などに出席した場合、聖会期間中は霊的に興奮し、普段と違って非常に恵まれていることから、「主よ、私はあなたの為でしたら、この国のリバイバルの為に命を惜しむことなく、全てを捧げ尽くして頑張ります!」などの激しい祈りをしがちです。またその時に、聖会の講師(有名なリバイバルの器)などから、「預言」や「啓示」を戴いたとしたら、信仰の絶頂感は如何ばかりのものでしょう。しかしその絶頂感は、暫く月日を経て行く中で、様々に私的「願い(計画)」が付加されることにより、霊的に冷めてしまったり、不信仰(霊的スランプを含む)の状態に陥る可能性があります。


 「これらのことの後で、・・・・」(1節)と記述されている点から、アブラハムも私たち同様に、霊的絶頂感に達した後の神の取扱いが、どのように為されているのか?ここに私たちは注目すべきです。父なる神は、彼に対して呼びかけた後、続いて2節の「命令」を授けました。アブラハムはこの時、決して信仰的にダウンしている訳ではないのですが、前述した如くに彼は、父なる神の「約束の言葉」に対して、私的なものを付加しているのです!彼の私的なものとは、父なる神の「命令」の中に、実は如実に示されている「言い回し」で、先ず「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、」の言葉の中にある、「あなたの」という表現です。


 父なる神は、アブラハムの「霊」の只中に、イサクに対する極端な「思い(愛情)」があるのを見抜きました。それ故に、単純に「息子イサクを、モリヤの山に連れて行きなさい!」と命令すればよいところを、「あなたの息子、しかもあなたが愛してやまない、可愛いい独り子イサクを・・・・」と、具体的に彼の心情を裏付ける「言い回し」をもって、彼の「霊」の中にある、信仰を取扱われているのです。彼にとって「イサク」の存在は、確かに父なる神からの、「授かりもの」でもありましたが、この時点での「イサク」は、彼本人の「喜びの源」であり、「幸せの源泉」とも言える、まさしく「何にも代え難い、私の愛するたった独りの息子」でした。


 覚えて戴きたいことは、「イサク」はあくまで、父なる神の「約束の賜物」であり、イサクの「全て」の主権は、父なる神の「御手」にあることです。ところがアブラハムは、いつの間にか「イサク(神のもの)」が、「私のイサク」や「私たちのイサク」、「私の民族の繁栄をもたらす、唯一の息子」などの私的「期待(願望)」に、霊的に摩り替わって行きました。私たちにも、この種の霊的弱さがあります。それは、私の「期待」が突然裏切られる、つまり自分の「思い」通りに、「事」が進まなくなった場合に、私たちはいとも簡単に「どうして主よ、今まで成功していた信仰の歩みが、このように歯車を狂わされ、悪しき事が次々と起きるのですか?」と、不信仰の発言(呟き)をするなど。


 アブラハムもこの時、一瞬「どうして?」と、戸惑いの色を隠せなかったことでしょう。しかし主なる神は、それらのこともご存知の上で、彼に対して具体的な指示を命じました。「モリヤの地に行き・・・・私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物として捧げなさい。」と。この「命令」は、彼の三次元的な「私の思い」を、根底から引っくり返す程の強烈な一撃でした。


信仰のテストの最終段階
 アブラハムに対する神の「最後のテスト」は、彼が不信仰であるとか、彼の所有欲がどのレベルにまで達しているのかを、判別するためのものではありません。それは逆に、私たちにも当てはまるものですが、物凄い勢いで信仰が成長したり、教会にリバイバルが起きている時に、つまり信仰の絶頂期に試されるものです。この時のアブラハムは、「イサクが私の人生の全てである!」と、確信する程の心境にありました。彼の「人生」としての期待、「一族」としての希望、「父親」としての願望などの、全てがイサクに向けられる、ある面で人間的な偶像とも言える存在が、彼の独り子イサクでした。明らかに信仰の優先順位が、この時点で引っくり返っているのです。


 実は父なる神は、アブラハムの人間的な「弱さ」をもご存知の上で、彼を奥深い聖なるフィールドに召し出すべく、この「命令」を発したこと、この点も私たちは謙虚に受け留めるべきです。つまり、父なる神が要求される場(神の大庭)が、必ず私たちにも用意され、私たちは「その時」試されるのです。アブラハムは、「ウル(この世)」を出立した時から、神の「導き」に全面的に従いつつ、神の示される「ここ(約束の地)」に、「人生」の全てを捧げ尽くしていた訳ですが、「人生」のゴール(終着点)に至り、「約束の子」を授かった時から、「ここ(神の大庭)」と「あそこ(私のフィールド)」がごちゃ混ぜになり、正しい信仰の軌道から離れつつある!そのことに対して主なる神は、彼の信仰の「歩み」を修正すべく、「最後のテスト」を彼に課したのです。


 父なる神が「あなた」に要求するもの、それは「私(私たち)が~」や、「私(私たち)の~」という、「私的思い(意識)」の死です!私たちは「罪」故に、この「私的なもの」を、神の「命の言葉」に付加することで、誤った道に歩んで行く危険性を、常にはらんでいることを知って下さい。そして主ご自身が、私たちに要求する「犠牲」とは、私的なものを一切、御子イエス・キリストという、贖いの子羊が捧げられた十字架上に、捧げ尽くされた「あなた」自身です。


 主なる神の「権威」を、私たちが高らかに宣言する時、たとえ如何なる状況に導かれたとしても、或いは如何なる「試み」を課せられたとしても、主なる神は私たちに対して、決して「罰」を与える方ではなく、私たちが素直に「はい主よ、私はここにおります!あなたの御心をお示し下さい。」と応答できる、神の幼子として霊的に取扱うべく、私たちを「至聖所」に召し出していることを、あなたは聖霊様を通して知らされます。


 私たちが「私という意識(エゴ)」を、霊的な「弱さ」として、父なる神の御前に捧げ尽くす(明け渡す)時に、私たちの霊的な死が全うされるのです!これがイエス・キリストによる、十字架の「救い」の御業です。父なる神が、実にその独り子(イエス・キリスト)を、この世に与えて下さった理由は、私たちが為し得ないことを、イエス・キリストが「全焼の生贄」として、十字架上に捧げられたという、この神の「事実」を、私たちが謙虚に受け留め、イエス・キリストの「救い」の御業を高らかに宣言し、イエス・キリストを通して、「救い(贖い)」が完成されることを、信じるために他なりません。


 たとえ如何なる状況下にあっても、主なる神の「主権」と「救い」のご計画は、あなたの「私的思い」を遥かに優った次元の中で、聖霊の働きによって、既に完成していることを信じて下さい!主イエス・キリストの「命の再生(復活)」により、十字架の「救い」の麗しい御業が、既に完成しているという「上」よりの信仰が、あなたの「信仰」に更に注がれることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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