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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.10)

                        アブラハムの植樹祭




そのころ、アビメレクとその軍隊の長ピコルはアブラハムに言った。「・・・・どうか、今ここで私と私の子、私の孫を欺かないと、神に誓って(シャバ)下さい。・・・・」アブラハムは答えた。「よろしい、誓いましょう。」アブラハムはアビメレクの部下たちが井戸を奪ったことについて、アビメレクを責めた。アビメレクは言った。「そんなことをした者がいたとは知りませんでした。あなたも告げなかったし、私も今日まで聞いていなかったのです。」アブラハムは、羊と牛の群れを連れて来て、アビメレクに贈り、二人は契約を結んだ。アブラハムは更に、羊の群れの中から七匹(シェバ)のメスの小羊を別にしたので、アビメレクがアブラハムに尋ねた。・・・・アブラハムは答えた。「私の手からこの七匹のメスの小羊を受け取って、私がこの井戸(ベエル)を掘ったことの証拠として下さい。」それで、この場所をベエル・シェバと呼ぶようになった。二人がそこで誓いを交わしたからである。・・・・アブラハムは、ベエル・シェバに一本のぎょりゅうの木を植え、永遠の神、主の御名を呼んだ。
                                                                                                        【創世記21章22~33節】


霊的記念のフィールド
 アブラハムは、「植樹祭」という儀式(行事)を、故意に行った訳ではありません。しかしアブラハムにとって、今回のストーリーに登場する、「ベエル・シェバ(誓いの井戸)」の地が、彼の霊的信仰を突き動かす程の、重要なフィールドである!と認識したからこそ、一本の「ぎょりゅう」の木を霊的な記念として、植樹し主の御名を呼んだのではないでしょうか?


 アブラハムは、アビメレクという「この世」の王(君主)に対して、「井戸」の水利権を巡る民族間の争いの解決策として、「戦争(武力衝突)」という「肉の力」に訴えるのではなく、「調停(契約の調印)」という関係を、己の「力」を超えた神の「導き」により、築き上げることが出来たことを非常に喜んだのです。


 私たちは「この世」に生きる以上、様々な人間関係の中での「争い」や「敵意」、また「そしり」や「迫害」などを受けることがあります。特にキリスト者は他の宗教勢力から、言われ無き「非難(争い)」の中に巻き込まれます。しかし今回の出来事は、私たち小さきキリスト者にも、大いなる希望をもたらすものです。


「ぎょりゅう」の木の生育するフィールド
 ご存知のようにアブラハムが、父なる神によって導かれた「選びの土地(フィールド)」、それはロトの場合と違った環境、つまり殆どオアシス無き荒削りの高地でした。ところで「ぎょりゅう」の木とは、英語でタマリスクと言い、聖なる木の一つとして見なされているものです。イスラエルには、この木が十種類以上存在しています。しかし不思議なことに、この木の生育場所(フィールド)は、殆どの植物が好むフィールド、つまり土質の肥えた場所にではなく、逆に生育しにくい荒れた砂漠地帯、しかも僅かな「水」しか無い環境においても、生育可能な植物であることです。


 つまり、この樹は砂漠地帯においても、地中の奥深い所にまで根を張り伸し、そして地下水脈に根を降ろすことで、地上部分が乾燥していても、大いに生育出来る植物です。だからと言って、この樹は地上部分において、決してみすぼらしい有様ではなく、荒削りの大地にあっても、この樹は大きな枝をより多く伸すことで、他の生物のために暑い日差しから、逃れることの出来るフィールド、つまり良き木陰をもたらすという、素晴らしい(恩恵)を与える聖なる木です。それ故、そのことを十分に知っていたアブラハムは、荒削りの大地を丹念に堀り進め、根を十分に深く張り伸ばすまで、毎日水蒔きをしながら、丁寧に育てたのではないかと推測出来ます。その「ぎょりゅう」の木を植えた場所において、アブラハムは日々主の御名を呼んで、真の神に礼拝を捧げたのです。


 私たちは霊的に見て、言わば「この世」の不安定な、荒削りの社会に生きています。そして主なる神が、御子イエス・キリストを再臨させる「その時」まで、私たちキリスト者は絶えず、主なる神の「御名」を呼ばわり、砂漠のような「この世」にあっても、主イエス・キリストを「信仰の土台」として据えて前進します。また私たちは、目に見えない領域にある部分に、「信仰」を働かせながら(根を降ろしながら)、主なる神が確実に私たちキリスト者の全てを、砂漠のような不毛なフィールドにあっても、確実に「一本の木」として植えていて下さる以上、決して枯らすことは為さらない!このことを聖霊の「上」よりの力をもって信じること、これが本来持つべき「信仰」であることも知っています。


この世からの「争い」に勝利する秘訣
 アブラハムはアビメレク一族と、自分の部下たちとの「争い」に関しても、己の中にある「肉の領域」を越えた次元の中で、父なる神が働いておられることを、ベエル・シェバの地で確認した「証し」として、彼は「ぎょりゅう」の木を聖別して植樹したのです。


 仮に私たちが、「この世」の君と霊的に妥協するのであれば、世的な成功が約束されるでしょう。しかし私たちが、霊的に主なる神の御名を呼び求め、神にのみ「信仰」と「希望」と、「喜び」を抱きつつ前進すればする程、この世からの「争い」は絶えることがありません。イエス・キリストも、理由無き「憎悪(争い)」の中に巻き込まれました。このような状況下の中にあっても、アブラハムは決して自らが、対抗心をもって「争い」を起していません。


 私たちキリスト者の場合、いくら聖霊に満たされているからと言って、言われ無き「そしり」や「中傷」を受けた時、殆どの者が敵に対する、神の「裁き(仕返し)」を求めて、祈る(願う)傾向にあるのではないでしょうか!しかし私たちの側に、彼らと同じ「姿勢(態度)」や「言動」などが存在する限り、私たちの前に置かれるベエル・シェバは、アブラハムが約束の保証として与えられた、誓いのフィールドにはなりません。むしろ逆に、益々「敵」の望む破壊されたフィールドになるだけです。


 では私たちはこの時、どうすべきでしょうか?それはアブラハムの信仰の行動に学び、私たちも同様の歩みを、聖霊様の助けによって為してゆくことです。アブラハムは、常に知っていました。「肉の目」では決して見えない領域にこそ、神の偽らざる「取扱い」と「目的」があることを。「肉の次元」においては、単なる敵の「争い」のフィールドが、現実として写ります。私たちが神の「救い」により、「この世」から選び召し出された(贖われた)本来の目的は、イエス・キリストが父なる神によって、贖い(救いの生贄)の子羊として、「この世」に遣わされた「目的」と同じものです。


 アブラハムは、彼ら(敵)の度重なる「争い(罠)」に対して、決して「沈黙(忍耐)」を貫き通した訳ではありません。如何なる状況下においても、父なる神が必ず贖い出して下さることを信じて、聖霊様が与えて下さる「正しい言葉」を、敵の指導者に対して大胆に訴え出たのです。私たちは、この世からの「争い」に巻き込まれたとしても、決して「自分の言葉」で対抗するのではなく、イエス・キリストが罪深い女を、石打ちの刑から贖い出す際に、父なる神から「正しい言葉」を戴いたのと同様に、私たちも神の「命の言葉」を待ち望みましょう。


 理由無き「争い」に耐えることは、非常につらいことです。しかし必ず聖霊を通して、神の「命の言葉」は適切な時に与えられます。そして、私たちが神の「正しい言葉」を、信仰をもって大胆に発した時から、道は開かれるのです!彼ら(敵)の「理屈(肉の言葉)」を大いに越える、聖霊様の「取扱い」、それが「シェバ(七匹のメスの小羊)」になるのです。私たちの側から産み出すものは、何一つありません。しかし、主なる神が与えて下さる「上」からの正しい言葉は、彼ら(敵)が私たちと争うことが出来ない程、神の大いなる次元の中で、必ず「正しい知恵」によって、彼らの「肉の争い」を撃ち破ることが可能になります。


 「この世」は私たちキリスト者にとって、霊的には「砂漠(荒れ果てた大地)」の如きフィールドです。しかしアブラハムは、如何なるフィールドにあっても、目に見えざる領域に働く、真の神の霊的取扱いに対して、全幅の信頼をもって従順した結果、今回のベエル・シェバの「危機(紛争)」に際しても、大いなる勝利を与えられました。アブラハムの勝利の秘訣、それは「肉の言葉」によらず、ただ神からの「正しい言葉」をもって、対処したからに他なりません。


 私たちは、「肉の争い」に召されているのではなく、「和解の使者」の務めがあることを覚えつつ、目に見えざる領域に働かれる、神の「ご計画」に期待しましょう。私たちは「この世」の人々から、様々な「そしり(争い)」や「敵意」を受けることがあるでしょう。しかし私たちは、この時の「タマリスク(ぎょりゅうの木)」と同様に、霊的に「荒野」と呼ばれる、「この世」に植樹されている以上、父なる神は私たちが良き木陰をつくる程の、大いなる霊的祝福(成長の時)の恵みを、目に見えざる領域(奥深い地中部分)において創造しているのです。


 あなたの、霊的に井戸を奥深く掘り進める作業は、必ず「あなた」という一本の「タマリスク」を通して、「和解」と予期せぬ「祝福」の中で完成されることを、是非信じて下さい。そしてアブラハムの如くに、益々主なる神の「御名」を呼び求め、霊的な植樹の「祭り(礼拝)」を捧げて下さい。そして目に見えざる領域に働く、真の神に向かって「祝福」の宣言(告白)を発しましょう。そうすればあなたは、必ず目に見える「神の事実」を、「この世」にあっても勝ち取り、明らかな「実」をもって確認して行くことを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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