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命と心の健やかなる成長のために!
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あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.9)

                          神の友になる場




主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないで下さい。・・・・木陰でどうぞ一休みなさって下さい。・・・・せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」
                                                                                                 【創世記18章1~5節】


「マムレ」という名のフィールド
 今回のストーリーにも「マムレ」という名の、一本の樫の木が登場します。不思議なことに、父なる神がアブラハムに対して、ご自身を示される「場(フィールド)」には、「井戸」や「泉」などと同様に、必ず何らかの「樹々」が存在しています。神の大庭である「聖所」においても、実は「樹々」の存在は、非常に重要なものとなります。


 この時アブラハムは、季節的に真夏の非常に暑い時期、しかも時間帯としては昼間の最中にありました。ご存知のように、昼間の最中に最も喜ばれる「場」、それは大きな木陰を造る「大樹」の下です。それも針葉樹ではなく、広葉樹の方が喜ばれます。何故なら広葉樹は針葉樹よりも、枝を真横に幾通りにも伸ばし、しかも大きな葉を多く茂らせるからです。不思議なことに木陰には、空気の対流現象が必ずあり、涼しい風が吹き込んで来る訳です。


 この樫の木の生育する「場」、即ち後に「ヘブロン」と呼ばれる地において、父なる神はアブラハムに対して、いよいよ最終的な「召し」を確立すべく、ご臨在を明確に示して下さいました。「ヘブロン」という名は、霊的に交わりを意味する言葉です。そして、この「交わり」という霊的行為が、私たちの信仰生活において、無くてはならない重要なものであることを、私たちは十分に知っています。「人間」だけが、家族という生活形態において、この「交わり」を尊ぶ存在です。この「交わり」からもたらされる「実(良きもの)」が、実は「一体化」という意識です。「一つ」となるという意識が、どれ程私たち家族の中において、重要なファクターとなるかを、私たちは結婚して知るようになります。


 アブラハムを「ヘブロン」へと、聖霊を通して導いた父なる神の取扱いは、より深く神の「御心」を知り、神の「導き」に完全に服することを、神との「親しい交わり」の中で教え示すことでした。アブラハムは、己の失敗から学んだ教訓を通して、十分に知っていました。それは神の「御心」よりも、自分の「肉の心(判断)」に従った結果、「イシュマエル(肉の子)」を設けたことです。


神の「友」として臨在される
 今回の、父なる神がアブラハムに対して、「ご臨在」を示された形態は、前回(モレの時)とは異なっています。前回の時は、彼が「肉の眼」で見ても、明確に分かる程の臨在をもって、父なる神は彼と交わっています。しかし今回の場合は、肉眼で見えても彼が即座に認識できない形態、言い換えれば見知らぬ(予想もしない)三人の人間として、突然彼の前に現れた(訪問した)と記述されています。つまり今回の神の「臨在」は、物理的にも「人」という形態をもって、直接(五感的なコミュニケーションをもって)交っているのです。それ故彼は、その三人が「主なる神」であると、当初は認識していませんでした。


 私たちが「神」を信じる意識の中に、果して自分が神の「友」であるか否か?そのような認識は殆どありません。勿論、自分が神の「下僕」、神の「軍兵」、神の「聖徒」、イエス・キリストの「花嫁」などの意識は、逆に多く抱くことでしょう。殆どのキリスト者が、父なる神から「我が愛する友よ!」と呼ばれても、「いいえ!とんでもありません。そんな恐れ多いことを、おっしゃらないで下さい。私は、とてもじゃありませんが、あなた様から友と呼ばれる、信仰の領域には至ってはおりませんから。」などと、尻込みするはずです。しかし父なる神は、私たちが如何に愚かで不信仰な者であっても、また罪深い者であっても、主イエス・キリストの贖いの御業により、私たちのことを「友」と呼んで下さること、これを是非覚えて下さい。


アブラハムの「信仰表明」
 アブラハムはこの時、三人の訪問客の元に急いで駆け寄り、「ご主人様方、どうぞよろしければ、この下僕の元を通り過ぎないで下さい!」と懇願しました。このアブラハムの発言に、今回のストーリーの重要な奥義が物語られています。彼のこの発言は、言い換えれば「どうか、この卑しい私と共に、しばらくの間お過ごしになって下さい!私は皆様方と交わりの時を、是非持ちたい!と強く願っていますから。」という、彼の信仰が突き動かすところの霊的飢え渇きの表明です。


 この表明は、シナイ山にて主なる神と会見したモーセ、そして盲人であったにも関らず、必死に救いの君(メシヤ)を待望して、決して「その機会」を逃さずに、イエス・キリストに懇願し続けたバルテマイなど、彼らの信仰表明と同質のものです。この時のアブラハムは、失敗だらけで根も尽き果てた、霊的には最悪の状況下にありましたが、後の時代に「信仰の父」と呼ばれる程に回復した彼の信仰が、この表明(行動)にあるのです!


 彼にとって、肉の眼に見える「事実」としては、老齢期の夫婦の間からは、特に妻(サライ)の胎の中には、もはや「赤子」を宿すことは、不可能であったにも関らず、父なる神は「三人の使者」として、彼に直接「交わり」の場を提供し、神の「御心」を届けて下さっている、この偉大なる神の「事実」を掴んだ時、彼は「主よ、私は決して、あなたの元から離れません!この機会を逃したら、二度と私はあなたのご計画に、あずかることが出来ません。」と、信仰から生じる「懇願」の言葉を、神に訴え出たのです。


信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
                                                                                                 【ヘブル書11章1節】


 この時点でのアブラハムは、ヘブル書11章1節の御言葉が示すところの、「信仰の領域(フィールド)」には入っていませんが、彼にも「カラシ種」程度の信仰はありました。それは「失敗」だらけの最悪の状況下にあっても、主なる神は再び訪問して下さり、必ず何らかの「交わりの時」を用意して下さるから、「その時」のために霊的な準備を整えておくこと、これが目に見えざる神を信じるということです。


 私たちは如何なる状況下にあっても、主なる神は私たちのために、ご自身の「臨在」を示して下さり、御子イエス・キリストとの「交わり」の中に、私たちを喜んで迎え入れて、完全に覆い尽くして下さること、このことを信じる必要があります。そしてこの時のアブラハムの如くに、神(三人の使者)を見上げ、地にひれ伏しながら「どうぞ私の元を、通り過ぎないで下さい。この私と共にお過ごし下さい!」と必死に懇願しましょう。


 「この世」の闇が地を覆い尽くしたとしても、「真の光」なる方イエス・キリストが、私たちの「霊」の只中に訪れて下さり、私たちに働く「暗闇」の勢力を完全にいっそうすべく、私たちにも神の「友」となるフィールドを、確実に用意して下さいます。あなたが、目に見える「事実」にではなく、目に見えざる「霊」の領域にある、「神の事実」を確認して行く時に、今まで見えていたことが如何に愚かな次元にあり、またあなたが如何に失敗だらけの、愚か者(不信仰な者)であっても、神はあなたのことを「我が友よ!」と、親しく呼びかける程に愛して下さっていることを、あなたは次々と体験することになるのです!


 主イエス・キリストは、私たちの「花婿」であると同時に、一番最高の親しい「友人」であることを覚えつつ、友なるイエス・キリストとの「親しき交わり」が、私たちの信仰生活の中に、聖霊様の働きによって豊かに深められますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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