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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.8)

                   アブラハムの選択した報酬




アブラムがケドルラオメルとその味方の王たちを撃ち破って帰って来た時、・・・・いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って・・・・アブラムを祝福して言った。「天地の造り主、いと高き神に、アブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡された、いと高き神が称えられますように。」・・・・ソドムの王はアブラムに、「人は私にお返し下さい。しかし、財産はお取り下さい。」と言ったが、アブラムはソドムの王に言った。「私は、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います。あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決して戴きません。『アブラムを裕福にしたのは、この私だ』と、あなたに言われたくありません。私は何も要りません。・・・・」これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
                                                                                               【創世記14章17節~15章1節】


「勝利」を手にした時
 今回のストーリーの出来事には、アブラムが実戦訓練した少数精鋭部隊が、敵の大軍を撃ち破ったことが記述されています。ところで「人」は、大いなる勝利(成功)を手に掴んだ時、様々に試されることになります。ご存知のように私たちは、惨めな「状況」や「苦しみ」の中にある時は、自分のことを誇ることはしません。ところが、状況が急に一転し成功し始めた時、殆どの「人」が変わるのです。いわゆる「所変われば、人変わる!」の諺にある通りです。


 アブラムは、如何なる状況にあっても、「己」を誇ることはしませんでした。彼は、ひたすら父なる神の「御旨」に服し、神の与えて下さる「恵み」を期待しながら、真実に生き貫いただけです。ところが、私たちは勝利した時には「よし、私が成したことは間違っていなかった。私には神が付いていて下さる!」などと誇り、逆に失敗した時には、自分のミスは棚において、「これは神の御心ではない。別の道を選択しよう!」などと言い訳を述べる始末。


 ところがアブラムの場合は、どうだったのでしょうか?彼は、幾多の失敗を繰り返しているにも関わらず、最終的には今回の出来事に至る時にも、神の御心に従った結果、ロトの被った「災い」に遭うこともなく、逆にロトの家族を助けることになった、つまり大いなる神の「勝利(成功)」を与えられたのです。


神の「大庭」に入る際のテスト
 私たちが神の「大庭」に入る際に、必ず通過しなければならない、神の「テスト」があります。それは、自己の利益を求めるのか、それとも神の「恵み(報い)」に服しながら従って行くのか?の二択試験です。


 「人」は、自分の利益のみを求めた時に、必ず選択するフィールドがあります。それはロトの場合と同様で、例えば「自分は~程の努力をしたのだから、・・・・の報いを受けるのは当然である!」などと主張する、自分のみに利益を求めようとする、「ソドム(ゴモラ)」的フィールドです。しかしアブラムの場合、彼はメルキゼデクの「賛辞」を受けながらも、全ての「栄光(利益も含む)」を父なる神に帰し、自分の利益を一切放棄しました。


 さて、私たちがアブラム同様に、今回の神の「テスト」を課せられたとしたら、つまり多くの人々から賛辞される程の、例えばリバイバルに貢献するなどの、大いなる「勝利(成功)」を手にした時に、私たちは試されるのではないでしょうか!しかし主なる神は、アブラム同様に私たちに対しても、自分の「利益」を神に捧げることによって、もっと大いなる神の「力」が、私たちの信仰生活に、聖霊様を通して働き始めるという、素晴らしい体験を用意して下さいます。


 アブラムは「私は何も要りません。」と、この世からの「報い」を拒絶しましたが、聖書には自分の「利益(報酬)」を求めることを、禁じる御言葉は記述されていません。しかし父なる神は、私たちが普段働いて得られる、「報酬」とは別の次元において、神が「全て」を支配し、私たちのために相働きて益として下さるなど、私たちのことを常に祝福して下さるという、本来私たちが立つべき神の「大庭」に入り、神の「恵み(報い)」のみに服しながら生きることが、私たちが最優先に求めるべきことです。


 そうです!私たちが、神の「至聖所」に入る際に、常に携えていくべきもの、それが自分の「利益」であるのであれば、サタンを喜ばせるだけです。サタンは巧妙に、私たちの「魂の声」を掻き立てます。「あなたは、よく頑張ったね。あなたが今まで、忍耐して祈ってきたから、これらのことが勝利の中で起ったのですよ。」などと、「あなた」を殊更強調しながら。


 しかし聖霊様の場合は、「ちょっと待ちなさい!確かにあなたも頑張りました。しかし父なる神の愛、イエス・キリストの恵み、私の助けと導き、これが全ての根本です。それ故あなたは、イエス・キリストに全てを捧げ尽くしなさい!全ては、御子イエス・キリストの栄光です。」と私たちの歩みを、「正しい道」へと軌道修正して下さいます。


「天」からの報いに期待する
 アブラムが受けた今回の「テスト」を、私たちも霊的に受験し通過し終えた時、私たちは彼と同様に、「全て」を捧げ尽くすべきです。とにかく私たちが、自分の得た「報い(利益)」をも捧げ尽くした時、神の「御力」が大いに働き始めます。その時に必ず私たちは、サタンの悪しき導き(囁き)により、自己憐憫的な「恐れ」も生じてくること、例えば「確かに、父なる神は大いなる結果を、私にもたらして下さいました。しかしこの私には、今何も残っていません!」などと、再び現実の「私」を見て「先(将来)」を心配する、この点をも注意しなければなりません。


 アブラムが体験した霊的次元は、私たちには到達できない領域であるかのように錯覚します。殆どのキリスト者は、「私にも、当然の報いを下さい!」などと、自分の利益を欲することでしょう。しかし、聖書はアブラムのことを、卓越した信仰者としては描いていません。「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。」(15章1節)と記述されているように、父なる神はアブラムの「恐れ(心配)」をもご存じでした。


 そうです!私たちの主なる神は、私たちの「全て」をご存じの方です。それ故に父なる神は、引き続き「恐れるな!」(同節)と語られました。この神の「ご命令」は、決して厳しい「口調(表現)」のものではなく、父親が「暗闇」を怖がる子供に対して、「大丈夫だよ!心配するな。全然怖くないぞ!」と、力強い声で励ます言葉です。


 続いて父なる神は、アブラムに対して①あなたを全ての危険から完全に守り通す(盾である)こと、②私は偉大なる天の報いを、必ずあなたに与えること、この二点を約束しました。つまりアブラムは、父なる神からの「約束の保証」として、この世にある如何なる「利益(報い)」よりも、遥かに優った「天の恵み」を確約されたのです!


 私たちの人生にも、必ずアブラム同様の二択試験が課せられます。「この世」から報いを得るのか、それとも「天」の報いにのみ期待しつつ、自己の利益を完全に神に明け渡す、つまり神の「恵み」によって生きるのか?というテストです。私たちの「真の羊飼い(オーナー)」は、この世の「君」の如き存在ではありません。私たちには「万軍の王」なる方、イエス・キリストがいつも共に居て下さり、「勝利」を約束して下さいます。また、私たちが心配する「先(将来)」を進んで下さり、私たちが必要とするものを、常に用意して下さる方です。


 あなたが、「この世」からの報いにではなく、「天」から与えられる「恵み」をもって養われ、聖霊様の「導き」と「助け」の中で、「全て」の面で勝利ある信仰生活を、送る(全うする)ことが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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