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神の大庭(No.7)

                            シケムの聖所




アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。
                                                                                                            【創世記12章6~7節】


「シケム」と「モレ」の霊的関係
 今回のストーリーには、二つの重要な名称である、「シケム」と「モレ」の名が記されています。父なる神が、私たちのために用意して下さる、「大庭(聖所)」に導かれる時に、私たちもアブラムの信仰の行動に、霊的に見習う必要があります。そこでこの「大庭」、即ち神の「聖所」において、①私たちは「何」を携えて行くべきか?、また②如何なる姿勢で神の御前に出るべきか?この二点について私たちは、アブラムの行動から知る(学ぶ)べきです。


 父なる神が、最初の「人(アダム)」のために創造して下さった「大庭(庭園)」、即ち「エデンの園」には、ご存知のように多くの樹々が植えられていました。ですから「庭園」には、必ず樹々が必要となります。今回アブラムが導かれた、「モレ」という名の場にも、「樫の木」が多く育成していました。「モレ」という名が地名なのか、それとも非常に大きな一本の、ある「樫」の木に対する、「ご神木」としての名なのか定かではありませんが、実はこの「モレ」という名称と、「シケム」という地名には、非常に重要な相関関係があります。


 ウォッチマン・ニーによれば、第一に「モレ」とは、霊的な意味合いにおいて、「教師(注1)」としての働きを指します。つまり教える者、知識を与える者を意味します。そこであなたも、ここで「ん!?」と気付かれるかも知れません。「そう言えば、エデンの園の中央にも、善と悪を知らしめる木があったなー!」などと。私たちは生まれた時から、「何か」を知る、また「何か」を求めることによって、そこから得た「知識」をベースにして、更に新しい「知恵(情報)」を模索しながら、自分の生活に何らかの改善と、様々な有用性を見出そうとします。


 続いて「シケム」とは、ウォッチマン・ニーによれば、「(注2)」を表すヘブル語で、聖書に記述されている場合の「肩」とは、「力」を現す源を象徴しています。つまりこの言葉から、アブラムが「力」を現すフィールドに、神によって導かれていることが分かります。しかも「シケム」には、まるで何の関係も無いような言葉、「モレ」が存在している訳です。


神の「臨在」を祭る
 アブラムが、「シケム」に到着するや否や、父なる神は彼に対して、ご自分の「臨在」を示され、「あなたの子孫にこの土地を与える。」(7節)という、約束の言葉を与えて下さいました。この記述から分かることは、アブラムの「肉眼」で、明確にキャッチ出来る程の神の「臨在」が、「シケム」において現されたことです。そして彼の人生始まって以来、最大の驚くべき「体験」を記念して、彼は主ご自身のために「祭壇」を築きました。


 ご存知のように、彼の信仰の歩みは、決して「立派である!」と呼べる程のものではなく、ある面「失敗」も数多く積み重ねてきたものです。しかし彼は、その「歩み」の筋目において、必ず「祭壇」を築いています。何故なら、自分の人生の「筋目」において、必ず主なる神が共に居て下さり、その時に必要とする「導き」を示されるからです。覚えて戴きたいことは、アブラムは神の「導き」に対して、私たちが時折吐くような言葉、「主よ、確かにシケムは素晴らしい所です。でもここは、彼ら(カナン人)の土地ですよ。」などと、屁理屈を述べていない点です。


 アブラムの信仰表明の如くに、私たちが神の「御心」を求めた場合に、神がそれに応える形で、ある「導き」を何らかの方法をもって示された時、たとえその「導き」が、自分の「理屈(判断)」や、「予想(期待)」に反するものであっても、私たちは直ちに「祭壇」を築く、つまり霊と真による「礼拝」を捧げるべきです。もしそうでなければ、私たちは必ず「祭壇」ではなく、「ブツブツ(不平)壇」を築くことになります。そして「神の肩(シケム)」にではなく、「自分の肩(肉の力)」を頼みとするようになるのです。


 しかしアブラムはこの時、神の導きにより「シケム」に着き、「モレ(樫の木)」の下に座した時、父なる神はご自身の臨在をもって、彼の前に目に見える形で現れ、彼の耳にも明確に聞き取ることの出来る、「生きた言葉」をもって語られたのです。私たちはこの出来事から、次の点を霊的に反省(悔しく思う)べきです!それは、父なる神は常に私たちの側に居て下さり、熱情の愛をもって語りかけて下さっています。


 ところが、私たちは安易に自分の肩(肉の力)に頼り、自分の肉の眼で判断し、神の上よりの「知恵」にではなく、自分の「知識」をベースにして前進しようとするものの、結局いつかは失敗に終わる、そればかりか神の「臨在」をも忘れている点です。そのような愚かな私たちであっても、聖霊様は絶えず「主の臨在は、あなたが何処に導かれようとも、いつもあなたの前に用意されます。それ故あなたが、主ご自身を霊の眼をもって見たいのであれば、すぐにも祭壇を築きなさい!」と、私たちを「正しき道」へと導かれます。


 アブラムは、主ご自身が現れて下さったから、そのこと故に祭壇(物質的な記念碑)を築いた訳ではありません。あくまで彼は、純粋に神を求める時に、必ず父なる神が、己の肩に頼ろうとする自分(私たちも含めて)に対して、上よりの「聖なる肩(シケム)」をもって、完全に覆い尽くして下さり、必ず「モレ(教え導く聖霊)」により、「親しき交わり」が完成されることを、霊的に知らされたことを感謝しながら、その場を霊的な「祭壇(至聖所)」として聖別したのです!


 そしてアブラムはこの時、「主よ、私が如何なる地に導かれようとも、そこに先ず祭壇を築きます!そこにあなたの麗しい臨在が、必ず現されることを求めます。あなたの御顔、あなたの御声を切に求めます。私の眼がはっきりと、あなたの御心を見る(捉える)ことが出来、あなたの御足に従って行くことが出来ますように!」と、全身全霊をもって神の御前に出たのです。


 神の「祭壇」は、私たちが「全て」を捧げ尽くす場、即ち聖なるフィールドです!神の「肩(力)」によって私たちが導かれる時に、私たちは天上から与えられる、真の「知恵(聖霊の導き)」を通して、霊的に養われ造り変えられること、これを忘れてはなりません!そのために、私たちが神ご自身と出会うぺく、各自の「祭壇」を築くのです。主ご自身が、いつも共に居て下さることを信じるのであれば、私たちの側からも、「祭壇」を築く必要があるのです。神の「肩(シケム)」は、あなたが導かれる全ての「場」において、あなたが築き上げる「祭壇」を通して、必ず用意され(現され)ます。


 主イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも私たちのことを、見捨てることも見放すことも、また孤児とすることも無く、ご自身の臨在をもって、あなたのことを「直接導きたい!」、「直接触れ合いたい!」、「直接親しき交わりの中に入れたい!」と欲しながら、あなたのことを愛して、見守り続けていらっしゃいます。主イエス・キリストの豊かな祝福が、あなたが築く「祭壇」から、豊かに拡がり現されることを、その麗しい御名をもってお祈りします。アーメン!


注1,2→ウォッチマン・ニー著『アブラハム、イサク、ヤコブの神』(日本福音書房)54~56項より参照


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