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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.6)

                     ノアが求め続けた大庭




ノアは主のために祭壇を築いた。そして全ての清い家畜と清い鳥の内から取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上に捧げた。主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。・・・・地の続く限り、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない。」
                                                                                                          【創世記8章20~22節】


神の「審判」の意義
 本来私たち「人」は、父なる神の「ご計画」により、「土」との関わりを、全ての生活面の中で、絶えず為すように創造されています。農業に従事していなくても、「人」は植物を愛し育て、またある時は「果実」を多様に味わうべく、フルーツ植物を「園」の中で、管理(栽培)しようと試みます。


 実は、父なる神は霊的な面において、私たちが「本来の人(アダム)」同様に、神の選ばれた「土」と、更に霊的に関わり合うよう、聖霊を通して命じておられることを、あなたはご存知でしょうか?それは、男性ばかりでなく女性においても、同じ「召し(方向性)」があるのです!


 「大洪水」が起きる以前のノアの時代は、今日の霊的状況と何ら変わりがありません。むしろノアの時代以上に、神の「救い」を否定する人々が急増し、人本主義という霊的に悪しき流れが、物凄い勢いで満ち溢れています。イエス・キリストの「十字架」という、救い(贖い)の「とりなし」があるからこそ、父なる神は「唯一の門」を、閉じようとされないのです。


 父なる神は、いずれ「最終の審判」の時に、私たちが今日暮らしている「古き地」を一掃し、「新しき天地」を創造されます。「その時」には大洪水ではなく、神の御怒りが「古き地」に暮らす人々に、今までにない「苦しみ(艱難)」と、「悲しみ(絶望)」を伴ってもたらされます。しかし私たちは、この「ノアの洪水」後に起きた、父なる神の「御心」に触れる(霊的に知る)時に、ノアの直ぐな「信仰」によって、神が決して「破壊」と「滅亡」をもたらす方ではなく、逆に「地」を新しく再創造することで、神の「御心」に従ったノアの「家族」を祝福する、「真の神」であることを認識させられるのです。


アダムの「土」の関わり方
 アダム(エバ)が為し続けた「信仰の歩み」、つまり如何なる「地」においても、罪人であることを決して忘れずに、「地」が祝福されるべく耕し続け、神の「御心」のみを求めて行く!という重要な「掟」を、カインの子孫は次第に忘れた結果、「大洪水」という神の審判が起きます。それ故私たちは、アダム(エバ)の「土」の関わり方、これを常に覚えさせられながら、同様のプロセスをもって、霊的に歩んで行くべきです。


 彼らは、第一に「地」を耕す前に、神の「御心」を求めました。私たちは「何か」事を始める時に、「よし、やるぞ!」などと、必ず自分の意思が働き、それが順調に進めば進む程、自分の「判断(計画)」に間違いは無かった!などと錯覚し、それを神の「御心」と、すり替えていることに気付きません。しかし彼らは、十分に知っていました。自分の愚かな「判断」や、「意思(願い)」から生じる「言葉」を選択した結果、神の御前に「直ぐな者」として、出ることが出来なくなった、つまり「裸(恥じる者)」であると気付いた(目覚めた)ことを。


 しかし父なる神は、そんな彼らのために、子羊の「命」を贖いの生贄として屠り、その毛皮をもって、朽ちることの無い「聖なる衣」という、「恥じる者」の覆いを繕って下さったのです。それ故彼らは、「私たちの内側からは、何も生み出すものが無く、自らの意思で選択出来るものは無い!」という、霊的にへり下った姿勢で、神の「御心」のみを求めたのです。神の「御心」だけを、純粋に求めて前進する彼らは、必ず主なる神が定めた、「ここである!」選びの地に導かれました。しかし神が示される「地」が、必ずしも「良きフィールド」とは限りません。


 第二のポイントは、如何なる「地」であろうとも、主なる神によって命じられた「地」を、仮らは純粋に感謝しつつ、ひたすら耕し続けたことです。私たちの「信仰の歩み」には、私たちが望みもしない状況や、出来事に出くわす時が多々あります。彼らも恐らく、それが肉の眼で「悪しきフィールド」に見える時に、耕すことに躊躇したかも知れません。しかし彼らは、聖霊の励ましを受けつつ、三次元的な「肉眼」に写る、困難な状況にではなく、とにかく耕し続けることで、いつかは(四次元の目で)見えてくる、父なる神の「収穫の時」を待ちわびながら、不毛に見える「地質」と「大岩」、「いばら(おどろ)」などの困難をも、耕し続けていったのです。


 そして「神の時」至りて、まさしく今までの「困難」と、様々な「苦しみ」を一掃する程の、大いなる「収穫期(結実の時)」を迎え、父なる神の「御心」が、自分たちの「心配(不安)」や「苦難」を、遥かに優った神の次元の中で、相働きて益として下さることを体験(学習)しました。


 第三のポイントは、彼らは「地」の収穫の初物を携えながら、父なる神の御前に出る時、「地」を耕し始める時よりも、更に「直ぐなる心」をもって、神を礼拝したことです。このように、「地」を耕し続ける!という信仰の行動には、実は父なる神に対して、自分の「直ぐなる心」を御前に捧げ尽くす、つまり「祭壇」を霊的に築き上げることが含まれています。


ノアが築いた「祭壇」の奥義
 ノアの場合は、如何なるプロセスをもって、父なる神に「直ぐなる心」を捧げたのでしょうか?アダム(エバ)の場合、彼らは神の「御心」を求めて、神によって示された「地」を耕し続けました。そして「収穫の時」を迎えることで、神に対する感謝の表明として、その都度「祭壇」を築きました。


 ところが、ノアの場合「洪水」後に、プロセス上の変化が起きています。「大洪水」によって、地上には全くと言ってよい程、植物生態エリア(オアシス地域)が見当たりません。まるで全てが「ゼロ」に見えるのです。しかし、ノアは聖霊に導かれながら、「我々は、神の偉大なる救いによって、新しい天地(フィールド)に導かれている!つまり神ご自身が、直接古きフィールドを一掃し、生き残った我々のために、既に新しきフィールドを耕された!我々は、もう耕す必要はないのだ。そうだ!今こそ我々は、ここ(新しき地)に祭壇を築こうではないか。」と号令を発したのです。


 つまり、ノアは「洪水」以後、「地」を耕す前に必ず祭壇を築くという、新しいプロセスを開始します。これは「新しい契約」の領域に至る、霊的アクションとも言えます。アブラハムも、「井戸」を掘る前に祭壇を築いていますが、これは、ノアの「洪水」後に代々受け継がれた、信仰の「教え(掟)」の優先項目です。


 「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。」(21節)と誓約された、父なる神の「御心」を知ったノアの家族は、如何なる「時」にも、如何なる「地」においても、自分たちが「地」を耕し続け、そこに「種」を蒔きさえすれば、主なる神が「地」を新しく創造されている以上、必ず収穫の「産物」をもたらして下さることを、この時に前もって知りました(神の御心に触れました)。それ故に彼らは、信仰の「祭壇」を築くことが出来たのです。


 つまり目の前に拡がる「地」は、決して「ゼロ」ではなく、無尽蔵に神の「祝福」が蓄えられている、つまり神の「永遠性」が存在する!と、悟ったのではないでしょうか!私たちも、ノアの「信仰」に見習って、如何なる「地」にあっても、主なる神の「御心」のみを求める、信仰の行動を表明すべく、霊と真による「礼拝」を、父なる神に捧げましょう。


 私たちの「霊の眼」に拡がる神の「大庭」には、必ず神の麗しい収穫の「産物」が用意されています。「信仰」の種を蒔き、「祈り」をもって耕し続けて下さい。「収穫(リバイバル)」の時は、もう目の前に近づいています!父なる神の豊かな「祝福」が、聖霊様の折に適った「導き」の中で、確実に迎えられますよう、主イエス・キリスト御名でお祈りします。アーメン!


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