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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.5)

                           二つの「戸口」




主はアベルとその献げ物には目を留めらたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
                                                                                                              【創世記4章4~7節】


最初の「戸口」
 父なる神は確かに、カインと彼の「献げもの」には、目を留められませんでした。その結果、彼が選択した「ゴール」の戸口には、父なる神に対して、以前の「顔」と「顔」を向け合うという、「親しい関係(交わり)」から、今度は地に「顔を伏せ」(5節)る、つまり父なる神に対して「背くこと(罪の戸口)」が待っていました。これが彼の選択した、最初の「戸口」でした。


 この時の彼の心境は、「怒り(憤り)」に満ちたもの、「何故私の献げものは・・・・?」、「私が父なる神に対して、何か誤った態度をとったとでも言うのか!」、「弟のは受け入れて、この私のは駄目なのか?」、「私は神に見放されたのか?合点が行かない!」などの、疑いに満ちた「思い(妬みも含む)」から来るものでした。


二つ目の「戸口」
 「だが、あなたは、それを治めるべきである。」(新改訳の7節)中にある、「だが(but)」という言葉の中に、父なる神の偉大なる「真の姿」が現されています。そして実は、ここに最初の「罪の戸口」とは別の、二つ目の「戸口」が用意され、その中に導かれるための霊的奥義が記述されています。


 余談になりますが、『エデンの東』(J・スタインベック原作)のストーリーの中に、実は7節の「話しの件(くだり)」があります。その「件(くだり)」によれば、ティム・ショールというヘブル語の研究者が、この7節の訳文には、明らかな文法上の解釈ミスがあると指摘しています。日本語訳も英語訳も、「あなたは、罪を治めなければならない(治めるべきである)」と、義務的な助動詞の文法から解釈しました。しかしティム・ショールの場合、彼はこの部分を「しかしあなたには、罪を乗り越えることの出来る力をも、父なる神が授けて下さる」と訳した(解釈した)のです。


 カインは確かに、一度「罪の戸口」に立った、いわゆる「失敗者」であったかも知れない。しかし父なる神は、決してカインを見放した訳でもなく、逆に神に拒絶されたものと錯覚する彼に、「罪」を治めることの出来る「力」をも、彼が悔い改めて求めさえすれば、彼は再び二つ目の「戸口」である、父なる神の御前に出ることが許されている!ことを、ティム・ショールは私たちに対して、強く教え示しているのではないでしょうか!


二人の「息子」の喩え


ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、「お父さん、私がいただくことになっている財産の分け前を下さい。」と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日も経たない内に、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。・・・・兄は父親に言った。「この通り、私は何年もお父さんに仕えています。・・・・それなのに、私が友達と宴会するために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。」
                                        【ルカ福音書15章11~32節】


 非常に対照的な、二人の息子の父親に対する、普段から持ち併せているイメージについて、私たちは父なる神に対して抱いている、霊的イメージと比較しながら、正しく「知る」必要があります。


 先ず第一に、一見忠実かつまじめに見える、上の兄が抱いていた父親のイメージ、それは「父は常に厳しい方であり、何事にも勤労と努力を要求する。それ故、自分もそれに応えなければならない!」などと錯覚するものでした。それに対して、この「喩え話」にも記されている如く、放蕩癖が何度もあり、何かにつけて注意を受けていた、下の弟が抱いていた父親のイメージ、それは「お父さんは、私が求めるものは、何でも与えてくれる方だ。だから欲しい時には、すぐお願いしてみよう!」などと、純粋に(疑うことなくストレートに)、父親の「心(思い)」を信じる、つまりいつも甘えられるイメージです。


 私たちが「知る」べき第二のポイント、それは犯した「罪」に対する、父親の処罰(報い)のイメージです。父親のイメージを、「常に厳格である!」と錯覚する兄にとって、「罪」イコール、父への「反抗」と把握していました。それ故「一度でも失敗し(反抗し)たら、二度と自分が(父から)受け入れられないだろう。」などの、誤った固定観念に縛られているので、子としての「願い(要求)」が、全く為しえなかったのです。


 それに対して弟は、叱られるのも序の口で、常に父親に甘えていたこともあり、放蕩の限りを尽くして、遂に絶命さぜるを得ない状況に至った時にも、「父上は、使用人たちに対しても寛大な心で、快く受け入れておられた。そうだ!最初私は、我が家には二度と入ることが出来ない!と思ったが、私が心から謝罪して下僕として生きるなら、父は必ず主人として(私を)受け入れて下さる!」と確信し、「父の家」に急いで戻ったのです。只一つの要求「父の元に、いつも居させて下さい!」を携えて。


 第三に「知る」べき最重要ポイント、それは彼らが「イメージ」した結果、如何なる「戸口」に立ったか?という点です。兄は常に「父親」のことを、限定的に捉えていましたので、出口も非常に狭きもの、つまり「一つしかない(道が閉ざされる場合があるので、いつもピリピリしていよう)!」などと選択し、逆に「罪の戸口」を背にして生きることになります。しかし弟の場合、「(父に至る)道は、いつも開かれている!それ故に、第二の戸口も必ず用意される。」ことを信じる、つまり父の御許に立ち返る選択(決断)をしたのです。


父なる神の正しい「イメージ」
 私たちは「父なる神」のイメージを、どのように描きながら、御前に出ているのでしょうか?恐らく殆どのキリスト者は、「父なる神」のイメージを、自分の肉親である「父親」と、常に重ね併せながら描いています。つまりそれは、フィルターのかかった「父親像」です。しかし覚えて下さい!父なる神は私たちの「父親」と、同じ次元に立つ存在ではありません。


 イエス・キリストは、弟子たちを始め多くの人々に、「父なる神」を知らしめる時、彼はいつもある方向性をもって、父なる神の「真の姿」を求めるよう説いています。それは、父の「御心」に触れる時に初めて、私たち(子)は今まで描いていた、錯覚したイメージから解放されることです。とは言え、カイン同様に私たちも、「失敗」だらけの罪深い存在ですから、そう簡単に「全て」が解放された、「立派な子」になる訳ではありません。


 「罪の戸口」はいつでも、目の前に立ちはだかります。しかしそれと同時に、父なる神の「偉大なる姿」を、一度知った私たちは、いつも開かれた「正しい道」へと入るべく、第二の「戸口(神の御前)」に立つことが出来るのです。そうです!道は開かれているのです。サタンは常に私たちに対して、「罪の戸口」を用意しています。「妬み」と「怒り」、そして「激しい憤り」と「拒絶感」などをもって。御子イエス・キリストを、贖いの子羊として、十字架上に屠られた父なる神は、いつも私たちのために、「神の大庭」へと通じる、第二の「戸口」を開けて下さっているのです。


 「神の大庭」は、必ず「真理(イエス・キリスト)」に至る道です。あなたが、「霊の父」である神の御前に出る時、いつもそれは、放蕩息子を出迎えた父親の如くに、「おー、よく帰ってきたね!私はいつも、あなたのことを気にかけている。あなたは、私の大事な子であるから。」と、ねんごろに愛される「恵み」にあずかる時です。主イエス・キリストの豊かな「恵み」と、父なる神を「知る」という霊的取扱いが、あなたの信仰生活の中に日々為されるよう、聖霊様の「働き(助け)」を通して、今も道が開かれています。あなたが、その「真理の道」に大胆に進み行き、益々霊的に祝福されることを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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