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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.4)

                         二種類の献げもの




さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「私は主によって男子を得た」と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土の実りを主のもとに献げものとして持って来た。主はアベルとその献げものに目を留められたが、・・・・
                                                                                                              【創世記4章1~4節】


神の求める「献げもの」とは?
 今回のストーリーは、①私たちの神に対する礼拝姿勢と、②私たちが如何に歩んでいくべきか、つまり生きる「召し(使命)」という、二つの霊的方向性を指し示しています。前回学びましたように、私たちは父なる神から、「信仰」という名の霊的フィールドを、絶えず耕すよう命じられています。そして、その「耕す」というプロセスは、私たちが決して怠ってはならない、非常に重要なアクション(日常の活動)です。


 アベルとカイン、この二人の兄弟は対照的な人物です。私たちが今回のストーリーを読んだ時、即次のように思う(錯覚する)可能性があります。「アベルは立派な信仰者だが、カインは不従順な者だ!」などと。しかし覚えて下さい!私たちが、このような三次元的な思考で、今回のストーリーを読み違えますと、このストーリーの中に隠されている、父なる神の「奥義」は見出せません。


 実はカインとアベルの献げた、二種類の「献げもの」に対して、主なる神が実際どのような「御思い」をもって、ご覧になられていたのか?つまり父なる神の「視点」に、私たちは「霊的な眼」を向けるべきではないでしょうか!「信仰のフィールド」という畑を耕して、父なる神の御前に出る(礼拝する)時、私たちの「献げもの」も、実はたくさんあるのです。主なる神が私たちに対して、如何なる「もの」を要求しているか(純粋に捧げ尽しているか)、それが問われてきます。


 私たちが霊的に誤った「方向性(目標)」をもって、神の御前に出るのであれば、それはカインと同じ結果になります。今回のストーリーに記されている、カインとアベルの各アクションに対する、父なる神のリアクションは、まるで父なる神が「最上のもの」以外には、決して目を留められない方である!などと認識し、非常に「採点基準」が厳しい方であるかのように、私たちは錯覚しがちです。また「目を留める」という父なる神の視点を、「カインのものより、アベルのものを喜んで受け入れた」などと解釈すること、これも私たちの三次元的「愚かさ(判断)」の一つです。カインの「もの」も、アベルの「もの」も、父なる神の「視点(御心)」からは、さほど重要なものではありません。父なる神は、私たちが捧げる(礼拝する)時に現れ出る「信仰のフィールド」、即ち「霊」そのものを見られるのです。これを常に覚えて下さい!


二種類の「献げもの」
 アベルは神の「恵み」を、常に意識し(心に留め)ながら、不作の時にあっても、その中から「最上のもの」を神に捧げました。ところがカインの場合、いつも次のように意識しながら、自分の判断で「これで良い!」と思うものを、捧げていたのではないでしょうか!「私も努力して、一生懸命に働いたんだから、まーこれ位のもので十分だろう。」などと。つまりカインは、自分の「判断」そのものを、祭壇上に置いただけです。


 私たちは父なる神を通して、「信仰のフィールド」を耕すように召されています。しかし、その際私たちは、その「目標(ゴール)」を見誤ってはなりません。カインとアベルのプロセスは、両者とも途中まで、「正しい道」に沿うものでした。父(アダム)の「教え」を忠実に守り行うべく、兄(カイン)は「土(信仰のフィールド)」を耕し続け、弟(アベル)は信仰をもって、「良き牧場(信仰のフィールド)」を捜し求め続けました。カインは自分の手で努力することで、耕作するフィールドの面積(規模)から、土地(地質)の改良に至るまで、目に見える形での結果が得られました。


 ところがアベルの場合、羊の群れを養育するための「牧草地」は、常に目の前に広がっているものではなく、必死に捜し求めて移動しなければ見つからないものでした。このようにアベルの「仕事」は、非常に「苦労(困難)」を要するものです。自分の力で産み出すものは何一つ無く、とにかく当ての無い場所を巡り、当ての無い牧草を捜し求める、これが彼の常なるアクションでした。しかし彼はその中で、父なる神が必ず「良き牧場」へと導いて下さり、羊たちにとって満足のいく「糧」を、いつも用意して下さることを、日々学んでいったのです。


 カインの場合はどうでしょうか?彼のアクションは、何もかも自分で為していく作業です。土地の耕作→種蒔き→成長の管理→収穫という一連のプロセスの中で、今年の収穫量を予想できる、つまり自分の「計算(計画)」が成り立つ、「自信」の持てる作業になります。しかし彼は一番重要なこと、つまりどんなに自分の「手の業」が優れていても、最終的な支配者(父なる神)が、自然の天気天候を管理し、折に適った「恵みの雨」と「太陽光(日照)」の注ぎを、この地にもたらさなければ、アベルが学んだように、自分からは何一つ得られない!こと、この重要な神の「真理(法則)」を、彼は次第に忘れてしまったのです。


 私たちが、「信仰のフィールド」を耕す際にも、カインの「失敗(ミス)」は起こり得ます。あたかも自分が「全て」を為しているかのように、サタンは私たちに働きかけます。ところが、自分の「内側」から産み出すものは何一つ無い!という、アベルが求めた最初の原点(基本)に戻らなければ、私たちもカインの如くに、「至聖所」において、「自分の判断」を捧げることになるのです!


正しい「目標(ゴール)」
 私たちが捧げる上で、「目標(ゴール)」とすべきものは何でしょうか?アダム(エバ)は、「罪」の烙印を押されたことにより、常に「私たちは本来、父なる神の最高作品として創造されたにも関わらず、自分の愚かな判断を優先した結果、父なる神との麗しい関係(交わり)に、もはやあずかることが出来なくなった。しかし父は、私たちが失った神の恵みを、決して忘れることが無いようにと、一匹の子羊を屠り、その毛皮をもって私たちのために、朽ちることの無い聖なる衣を着させて下さった!」ことを、いつも心の奥底から意識しながら、正しい「目標(ゴール)」を見据えて前進し続けました。そして日々神の御前に出ることで、自分の「全て」を捧げ尽くしたのです。同様にアベルの「ゴール」は、父なる神の「恵み」無くして、良き「牧場」も良き「牧草」も、決して自分からは見出せない!ことを、常に学ぶことでした。


 前述したように父なる神は、カインとアベルの「献げもの」を、様々な視点をもって見比べながら、その「良し悪し」を判定される方ではありませ!むしろ私たちの、悔いた砕かれた霊的姿勢(直ぐな心)、つまりあなた自身の全てを、神の御前に捧げて尽くしているか否か、これをじっくり見ておられるのです。私たちが召されている理由、それは①父なる神を霊と真をもって愛し、②神を絶えず求め知る、そして最終的には③神に栄光を帰すべく仕える、この三つの「目標(ゴール)」を見定めて生きることです。


 あなたが「霊的な糧」を正しく求め、神の御前に「直ぐな心」をもって出るという過程において、「目標」を正しく定めて下さる、聖霊様に依り頼みつつ、あなたが霊・肉共に「全て」の面で恵まれ、健やかに成長されることを、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン!


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