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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.3)

                       神の土を耕しなさい!




主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。
                                                                                                                 【創世記3章23節】


「土」の意味すること
 イエス・キリストは私たちの霊が、「神の宮」として建て上げられていく上で、実際の「畑」の如くに、私たちの「霊のフィールド」を、丹念に耕す必要があることを、「新しい契約」の教えの中で紐説いています。ご存知のように私たち「人」は、「土」を非常に大切にする生き物です。恐らく「人」の遺伝子の中には、「土」を耕し、それらを常に管理(保全)し、ある時期に様々な「種」を蒔くなど、「土」と共に植物を育む行動因子があるのかも知れません。


 勿論「土」そのものは、私たちの「手」を汚すものではありますが、熟練した賢い農夫は、「土」がどれ程肥えているのか?それを吟味する際に、その「土」を一掴みにして、自分の「口」に少々含みます。つまり、「土」の味を探る訳です。これは、自分の胃袋へと「土」を食する行為ではなく、「土」の中の成分(味わい)を、自分の「舌」で知ろう(探ろう)とする行為です。その人にとって「良い味」がするのであれば、当然「土」の中で生活する昆虫や小さな生物も、その「土」に多く群がる(生息する)ことを、賢人(達人)は「知恵」として学んでいるからです。ところが、その人にとって「土」の味覚が、「キツイ(苦々しい)!」ものであるなら、その「土」の中で育つ植物も、「不快(より良く成長しない)!」などと思う、このように賢人は考えています。


神の「選びの土」
 私たちの「霊のフィールド(神の畑)」において、「本来の人(アダム)」が罪を犯す以前、余すことなく享受していた、神の「祝福」の産物(実り)にあずかるためにも、実は霊的な耕作という行動が、私たちの「霊」の領域には必要である!先ず、この点を覚えて下さい。ご存知のように父なる神は、罪を犯した彼らを「エデンの園」から追放しました。この父なる神の「追放処分」は、決して罰を与える(刑を科す)というイメージのものではありません。父なる神は元々、「神の園」にある「聖なる土」をもって、彼らを丹念に創造しました。実はその同じ成分の「土」を、父なる神は「園」の外部に、彼らのためにわざわざ用意したことが、23節に記されています。


 父なる神の霊的な「創造の法則」においては、神は「人」を創造する際に、ご自身が直接「土」を用意し、丹念にその「土」を練り聖められました。ですから神の聖なる土は、非常に重要な「選びの土」でもある訳です。この「選びの土」を、今度は「罪」深き彼らのために、わざわざ「園」を出て行く前に用意したこと、ここに父なる神の「選び(贖い)」の予型が示されています。決して私たちは、どこにでも存在するような、適当な土で創造されているのではありません!父なる神が「園」の中から、「最上のもの」として選んだ、「聖なる土」と「塵」をもって、私たち「人」は創造されているのです。そして更に私たちの「霊」は、神の「命の息(聖霊)」が宿る器として、本来創造されているのです。


 「園」を出て行ったアダムは、父なる神に命じられた通り、「聖なる土」が何処にあるのか分からずに、「地」を耕そうと試みました。ところが、「神の園」においては、スムーズに為していた「耕す」という仕事は、「地」においては困難極まるものでした。何故なら、「地」全体が呪われていたからです。そのような彼らに対して、父なる神は聖霊を通して「励まし」を与えました。「私はあなた方に、必ず祝福に満ちた、聖なる地(フィールド)を用意している。それ故あなた方は、私があなた方を創造する際に、特別な土を必死に探し求め続けたように、私が用意した聖なるフィールドを探し続け、そこを耕しなさい!そうすれば必ず、そこから私の麗しい産物(実)が、あふれる程に収穫されることでしょう。」と。アダムは喜びながら、「ありがとうございます、お父様!とにかく、私たちは耕し続け、そしてあなたの聖なる土を探し続けます!」と、再び開拓意欲に燃えながら、耕筰作業を続行しました。ところが掘れば掘る程、「神の園」には無かった障害物(大岩、根株、粘土層)が、土の中から多く出てきます。


「新しい契約」の教え
 父なる神がアダム(エバ)に命じられた、①「土」を耕し、②耕作された「土」を管理し、その後③良く管理された「土」の中に種を蒔き、④収穫の時まで「土」を手入れするなど、これら一連の農作業(サイクル)は、人類史始まって以来、今日も同じサイクルをもって為されています。これら一連のサイクルを、イエス・キリストは「新しい契約」の奥義として、私たちにも教え示しています。


種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれを塞いでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
                                                                                                 【マタイ福音書13章3~9節】


 ご存知のように賢い農夫は、枯れてしまうようなフィールドに、わざわざ「種」を蒔くことはしません。彼は「種」を蒔く前に、十分にフィールド調査を実施し、仮に障害物(岩、石ころ、茨などの雑草)があったら、丹念に取り除いた後初めて、「土」を何度も耕し(掘り起こし)ながら、その中に十分な肥料を混入させ、ようやく「種蒔き」作業に入ります。ところがイエス・キリストは、この「喩え話」の中では独自の観察力から、四種類のフィールドに蒔かれた「種」の成長過程を、分かり易く説明しています。


 ご存知のように私たちの「霊」は、神の畑(聖なる地)であり、神が住まわれる「神殿(神の宮)」です。しかし「神の宮」は、タナボタ(棚からボタ餅)式に三日間で完成する、インスタントなもの(仮設住宅)ではありません。それはまるで、未開拓の「土地」を長期に渡って開墾し、十分な「耕作」プロセスを経て、ようやく「種蒔き」に入るという、ある面それは根気の要る、霊的な「取扱い」です。実は「耕す」という行い(霊的行動)において、イエス・キリストの「喩え話」にある如く、私たちは四通りのフィールドを形成する可能性があることを、先ず覚えて下さい!


 私たちの殆どが、「あー、私の信仰の畑は大丈夫ですよ。そこは三十倍、六十倍、百倍に実を結ぶことが出来る程、豊かに耕されています。どうぞ、あなたの種(命の言葉)を与えて下さい!」などと、大胆に告白できる状況には無いと思います。イエス・キリストが説明する「第四のフィールド」は、あくまで私たちの「霊」が整えられていく上で、最終プロセスに至る霊的状態を示しています。


 先ず、「第一のフィールド」に蒔かれた「種」の意味することは、サタンが私たちの「霊」に対して、すぐ囁きかけてくる言葉、「諦めなさい!もう無理ですね。」という方向に耳を傾け、「命の言葉」の持つ偉大な法則、つまり一度神が発せられた御言葉は、必ずその通りに成る!という信仰から離れ、「己の声」のみに聞き従って、最終的には神の道から逸れた状態(フィールド)になる姿のことです。彼らは、「放棄畑」という名のフィールドに留まる者です。


 「第二のフィールド」とは、「岩」が多く存在する霊的状態を示しています。この「岩」とは、「自分で何もかも為してみたい!」、「自分の知恵(知識、経験)で判断する!」などの自己中心的行動パターン、つまり「独断畑」という名のフィールドに立つ者のことです。彼らの「霊」に、たとえ神の「命の言葉」が蒔かれたとしても、私たちの「霊」の一番深い所に存在する、「自我(エゴ)」という岩石が、聖霊様を通して取り除かれていない為、根を深く掘り下げること無く、立ち枯れすることになります。


 「第三のフィールド」、それは一見十分に耕作された、「良き畑」のように見えます。稲作を経験された方はご存知のことですが、「田」を丹念に耕し、水を引いた後に「田植え」を為す訳ですが、しかしそれは、苗を植えてしまえば、後は秋まで収穫を待てば良い!というものではありません。実はその間、苗と苗の間から、雑草が常に伸びてきて、放っておいたら苗の成長を阻む程、雑草の繁殖力が早いため、熟練した農夫は時間と体力を無理にでも使って、「草取り作業」を行います。実はこれが稲作において、一番体力(腰を曲げて、ぬかるんだフィールドを歩くため)と根気の要る作業です。この時、一本一本の「雑草」を取り除く訳ですが、単純に大きめの雑草を引き抜くのではなく、小さな雑草に至るまで根こそぎ掻き取るよう行います。


 このように私たちの「霊」のフィールドにも、常に「茨」と「おどろ」が侵入して、せっかく聖霊様によって耕作されたフィールド、私たちの「良きフィールド」も瞬く間に侵略され、成長しつつある「信仰」が枯れてしまうのです。この「第三のフィールド」を、「無防備な畑」と呼びます。サタンは必ず私たちの「霊のフィールド」に、「神の宮」が確立されることを忌み嫌い、様々な手段を講じて荒廃させようとします。何故なら、私たちの「霊」の只中に、神の宮が完成されてしまったら、如何なる「悪しき力」も、その中に侵入できないことを、サタンは知っているからです。


 ですから神の「聖なるフィールド(良き土)」は、私たちが霊的に耕し始め、聖霊様によって完成されて行く時に、「エデンの園」と同じ成分(働き)をもって、必ず与えられ既に用意されてある!このことを信じて下さい。賢い農夫(信仰者)は、聖霊様の御声に注意深く耳を傾け、尚もサタンの侵入を見張り続け、彼らの悪しき「試み」と、自分の「霊」の中に巣食う自我という、霊的な「苦い根」を断ち切ることに命を懸けます。


 最終的に、「放棄畑」→「独断畑」→「無防備な畑」という、これらの霊的状況を、聖霊様の御力によって克服した者は、「第四のフィールド」、即ち「神の大庭」が確立されることになります。父なる神が私たちの「霊」に、確立しようと用意している麗しいフィールドは、既にあなたの「霊」の奥深くに存在しています!それ故あなたが、ひたすら神の「聖なる土」を捜し求め、そこを耕し続けるという、霊的に悔いた砕かれた状態で、神に飢え渇くことが必要です。ある面これは、「信仰」という名のバトル・フィールド(戦場)です。


 あなたが、ひたすら主なる神を追い求め、悔いた砕かれた姿勢で耕し続ける時、あなたの知恵ではなく、天上から与えられる神の「知恵」が種蒔かれ、「神の時」至りて麗しの「神の宮」が、あなたの「霊」の只中に確立(完成)されることを、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン!


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