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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.2)

                    神の園の時間サイクル




天地万物は完成された。第七の日に、神はご自分の仕事を完成され、第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神は全ての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
                                                                                                              【創世記2章1~3節】


「神の時」を理解する
 私たちキリスト者は本来、「神の園(大庭)」の中にあって、その聖なる「恵み」を味わい、また父なる神との麗しい「交わり(臨在)」に、あずかることを常に求めるなど、聖なる飢え渇きがある訳ですが、残念ながらアダム(エバ)の罪の結果、「神の園」に至る聖なる「門」は閉じられています。


 それが再び、開かれるようになった史上最大のイベントは、イエス・キリストがはん祭(聖なる生贄)として、「十字架」上にご自身の「命」を奉じられ、その尊い「死」をもって、私たちを贖い(救い)出したことに始まります。イエス・キリストの贖いという、聖なる御業の結果、「聖所(神の庭)」への道が再び開かれ、私たちが「園」の奥深くへと、大胆に進み行くことが可能になり、神の居ます「至聖所」にあずかることが可能になったのです!そうです!霊的な至聖所である「神の園」は、いつも父なる神が聖霊様を通して、自由に備えていて下さるのです。


 ですから、私たちが霊と真をもって礼拝する時、それは御国の「園(大庭)」の中にあって、父なる神の聖なる「恵み」と「交わり」を受けるという、一つの備え(訓練)の時でもあるのです!私たちの信仰の歩み、また私たちが様々に経験すること、それら全てが「神の時」至りて、イエス・キリスト(家長)を中心とする、「聖なる交わり」の中に融合され、いずれ「御国」において、「永遠の交わり」が完成されていく上での、重要なプロセスとなるのです。


 「悲しみの時」「喜びの時」など、私たちには様々な時のサイクルがあります。それら「全ての時」は、父なる神が折りに適った「恵み」として支配し、「ご計画」の中にあって完成しようと、あらかじめ定められたものです。私たちはこの点を、常に覚えておく必要があります。


神の創造の時間サイクル
 父なる神は「エデンの園」において、「罪」を犯す以前のアダム(エバ)に対して、一つの「時のサイクル」をもって教え導いています。実は私たちキリスト者も、この神の「時のサイクル」を知る(学び直す)ことで、父なる神の大いなる次元(時間の流れ)にあずかることが可能になります。


 父なる神にとって、私たちが「時計」を見たり、「スケジュール(時間配分)」を立ててみたりするなど、いわゆる時を刻む概念(或いは行動)はありません。では「何」があるのでしょうか?それは「アルファ(始め)」であり、「オメガ(終わり)」である真の神が、私たちに対していつも示して下さる、神ご自身の「時のサイクル」です。


 それは父なる神が、万物を創造される際に為された、「不変のプロセス(行動手順)」の中にあります。つまり、神ご自身の「霊」が欲する(思う)ことを、「命の言葉」をもって発した(現すこと)時から、「万物」の始まりの時がスタートしている訳です。即ち神の「命の息なる方(聖霊様)」が、父なる神の「御思い(意思)」を動かし、ご自身の「口」から、「霊の言葉」をもって発音した時から、「全て」の物事(時間サイクルも含む)、つまり宇宙の「歴史(His story)」がスタートしているのです。


 創世記1章においてモーセ(記述者)は、神の天地創造のプロセスを順番に書き記すに当たり、第一の時(第二の時・・・・)と表現しています。私たちは「第一の時」を、「初日(一日目)」とイメージして読んでいますが、決して「First Day(24時間)」という、私たちが考えるような「時のサイクル」ではありません。あくまで聖霊を通して順番付けられた、「プロセス(手順)」上の流れであり、父なる神は順番に「万物」を創造し、建て上げていったことが伺えます。そして「第六の時」である、六番目のプロセスに至った時、これは「完成の時」として定められたものです。そして「最終のプロセス」、つまり「第七の時」に父なる神は、聖霊様が用意して下さった、「安息(充足)の時」を迎えた(受け入れた)のです。


 このように、神の「時のサイクル」というものは、父なる神が創造の業を進めていく上で、聖霊様が順序立てて用意して下さったものです。恐らく聖霊様は、父なる神が「第六の時」に万物を完成し終えた、まさに「その時」、父なる神に次のように進言したことでしょう。「父なる神よ!ついに御心が成就(完成)しましたね。ご苦労様でした。残りの時間サイクルは、ご自身が創造なさったものを見て、これを十分に満足なさって下さい!安らかにお楽しみ下さい!」と。


 聖霊様によって、聖別された「第七の時(安息の時)」は、如何なる「素晴らしさ」をもって、「神の園」に暮らすアダム(エバ)に用意されたのでしょうか?父なる神が、アダム(エバ)に対して命じられた、「安息日を聖別する」規定には、罰則(ペナルティ)はありません。どちらかと言えば、「祝福の法則」を教え示すものです。つまり、もっと更に父なる神の麗しい臨在に入り、私たちが創造された「真の目的」を知るために、この「安息の時」が用意されているのです。「知る」とは、新しい「食べ物」を口に含んで味わう時と同様に、実際に体験(学習)し、そのものの持つ「素晴らしさ(味覚)」を吸収していくことです。


神の安息に入るための条件
 父なる神が「神の園」に、「本来の人(アダム)」を創造し終えた時、つまり「第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。」(2節)ことが、記述されています。この御言葉を詳訳しますと、「父なる神は、今まで為していた①創造の業を先ず終了し(finish)、続いて②ご自身の手の業をストップした(stop)」となります。この言葉の中にある、二つのキーワード「finish」と「stop」は、どちらも簡単な行為のように思えます。しかし私たちには、中々この二つの霊的行動が、「罪」故に為しえない存在です。


 「finish」するということは、「begin(開始すること)」に移ってはなりません。また同様に「stop」したら、「move(act)」してもなりません。「エデンの園」よりも、もっと麗しい「神の園(大庭)」へと、私たちの「霊的フィールド」を造り変えるためには、父なる神が第七の「安息の時」に、全ての御業をフィニッシュし、そしてストップされたのと同様に、私たちの「霊」の中心に、聖霊様が示される霊的条件、即ち「finish」と「stop」を、固く据えなければなりません!


 この二つのキーワードは、ある面で「神の大庭」に入るための、通行許可証(条件)になるものです。聖なる「安息の時」、この「時」はある面、神ご自身が「あなた(迷いし子羊)」のことを、ずっと待っておられる時のサイクルです!またイエス・キリストが、「あなた(花嫁)」に会いたくて、戸口の前でノックし続けて下さっている「聖なる時」です!それ故、「あなた」は前日より、自分の「手の業」から「心の動き(言葉)」に至るまで、全てをフィニッシュしストップし、聖霊様によって麗しく聖別された「花嫁」として、「その時」に入って戴くことで、あなたの「霊のフィールド」が、「神の大庭」へと造り変えられるのです。


 私たちは「言葉」と「業」に関して、様々な能力(タラント)が与えられています。しかし主なる神が聖別した、第七の「安息の時」においては、私たちの「業」と「言葉」は、無意味な(必要無き)ものです。私たちが、聖なる「安息の場(大庭)」に入る時、私たちは自分の「言葉」と「業」の全てを、神の祭壇に焼き尽くして下さい!


子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れる時、確信を持つことができ、御子が来られる時、御前で恥じ入るようなことがありません。
                                                                                                              【Ⅰヨハネ2章28節】


 私たちが、直ぐなる「霊」をもって御前に出る時、父なる神は私たちのことを「実子」の如くに、力強い御腕をもって迎え入れて下さいます。私たちが「御国」において、決して恥じ入ることが無いためにも、「神の園」において自分の「業」と「言葉」を、ことごとく捧げることが出来るよう、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン!


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