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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.1)

                  神の園に植えられた樹々




神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、全てあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。・・・・」
                                                                                                                 【創世記1章29節】


 父なる神が用意して下さる、麗しい「神の大庭」に入るようにと、聖霊様を通して命じられている以上、私たちは大胆に喜び勇んで、その奥深くに進み行くことが求められます。あなたにも、父なる神は必ず「大庭」を用意して下さっています。あなたが「大庭」の奥深くに進み行き、その中心に座しながら、あなたを待っておられる方、即ちイエス・キリスト(花婿)に出会って、「親しい交わり」を持つことを、聖霊様はいつも強く願っておられること、これを常に覚えておいて下さい!


 この「神の大庭」とは、分かりやすいイメージで表現するならば、「庭園(ガーデン)」のことです。しかしそれは、日本人が描くような「日本庭園」、つまり小さなフィールドではありません。そして、父なる神が最初に創造された「大庭」こそ、「エデンの園」に他なりません。この神の大庭である「エデンの園」が、如何なる目的をもって創造されたのか?また「園(大庭)」の中に植えられた樹々が、神の如何なる「意思(ご計画)」の中にあって「園」を潤し、その樹々のもたらす「実」が、実は私たちにとって、素晴らしい神の「祝福」であるか?これらの点について学んで参りましょう。


神の「大庭」-二つの奥義-
 先ず第一の重要なキーワードは、「それがあなたたちの食べ物となる。」(29節)の御言葉の中に記されています。父なる神が「人」のために、「園(大庭)」の中に樹々を植えられた目的、それは樹々のもたらす「実」を、「人」が食す(eat)ためであったという点です。つまり「食す」こと、これが第一のキーワードです。私たちの基本的な「欲求」の一つ、「食す」という本能は、一見尽きることが無いもののように思われますが、それは満たされた状態(満腹)に至った時、食すことを停止します。


 「エデンの園」において父なる神は、「人」に対しては二種類の植物しか植えていません。①種子だけを実らせるもの(穀類や栗など)、②種の他に果実をもたらすもの(フルーツなど)です。この「食す」という言葉から分かりますように、実は父なる神が「エデンの園」を創造された目的が、「人」のためであったことです。確かに他の生物も「エデンの園」の中で、様々な食生活形態をとりながら共存していました。しかし、ある特定の生物に対して、何らかの植物が食用として定められた訳ではなく、神の摂理(生態系バランス)の中で、彼らは共存していたに過ぎません。それに対して「人」のためには、父なる神はわざわざ、二種類の植物を「園」に植えられ、その「実」をもって「人」を養われたのです。


 第二の重要なキーワード、それは「実(fruit)」という言葉です。フルーツの嫌いな人は滅多にいません。何故「人」は、いつも「フルーツを食したい!」と欲するのでしょうか?それは、単純な理由(真理)に基づいています。「フルーツは私たちの口の中で、麗しい甘味を幾変化にも与えてくれる」からです。仮にリンゴがしょっぱい味だったら・・・・。そのようなリンゴを想像できないほど、私たちにとってリンゴは、まさしく甘酸っぱいものなのです。そして、どのリンゴをとっても、同じ甘味はない!という事実です。


 口に甘いものを含んだ時に初めて、その樹が持つ「大いなる力」を知り、私たちはその樹を大切に管理します。それ故に神が、私たちに本来与えて下さっている園の樹々は、必ず麗しい「実」を結ばせ、その「実」をもって父なる神は、私たち「人」がそれを食し合う喜びも、同時に与えて下さったという素晴らしい奥義が、「実(fruit)」という言葉の中にあるのです。つまり、父なる神がアダム(エバ)を創造し、「園」に住まわせた目的は、ご自身との「親しい交わり」を深められるのと同様に、更に彼らに対して直々、「園」にある二種類の植物の「実」をもって、「最上の食卓」を用意するために他なりません。


 そして、彼らが神の「食卓」につくことで、神の「ご馳走(fruit)」を、この上なく美味なものとして感じ喜び合う、この彼らの姿(有様)を父なる神は、満面の笑みをもってご覧下さったものと思われます。彼らはその度に、「主よ、あなたは私たちをいつも生かし、私たちが必要と思う以前から、あなたは素晴らしい実を準備して下さっているんですね。不思議なことです。あなたは何と麗しい御業を、私たちのために用意して下さっていることでしょう!」と、自然と「喜び」と「感謝」を、父なる神に捧げたのです。


 私たちが覚えておくべき重要ポイントは、「父なる神は、常に最上のものをもって、私たちを祝福したい」と欲しておられる方である!という点です。「悲しみ」「苦しみ」「病い」などは、サタンのもたらす「罪の法則」から生じるものであって、神が私たちに与えるものでは決してありません。勿論、「罪」に染まり切った私たちを、霊的に取扱い聖めるという目的のために、「試練」を通過させることはありますが、父なる神は私たちが、「罪人」であっても「善人」であっても、等しく欲しておられることは、ご自身が創造された最上の「産物(実)」をもって、私たちを常に祝福し、私たちがその「実」を食することによって、神に「感謝の意(顔)」を表している、その「姿(有りのままの喜び)」を見たい!ということです。つまり「父」は、「子」の喜ぶ様を常に見たいがために、「良きもの(プレゼント)」を与えるのです。


神が「人」を創造した目的
 あなたは、「何」の目的をもって父なる神に創造され、そして「何処」に立ち返るべきでしょうか?本来私たちは、父なる神の「愛」を十分に受け留め、そのこと故に私たちも、霊と真をもって父なる神を愛すること、これが第一の創造の目的です。それと同時に、父なる神が私たちを、「神の大庭」に住まわして(立ち返らせて)下さる時、私たちは神の「最上の産物(実)」を食する恵みにあずかり、「父よ!あなたは何と偉大な方であり、私のために麗しいものを用意して下さっていることでしょう!」と、全身全霊をもって「喜び(感謝)」を表すこと、これが第二の創造の目的です。


 私たちは何故、「神の大庭」に入る(立ち返る)ことが、霊的に求められているのでしょうか?「神の大庭」には、父なる神の麗しい臨在があり、必ず素晴らしい「実」をもって、私たちを祝福して下さるからです!私たちは単純に「大庭」に進み行き、「園」の中央に並べられた「神の食卓」を囲んで、それらの「実」を食し合うことで、自然と「父」に喜びを表明できるのです。


恋しい人は言います。「恋人よ、美しい人よ。さあ、立って出ておいで。ごらん、冬は去り、雨の季節は終わった。花は地に咲きいで、小鳥の歌う時が来た。この里にも山鳩の声が聞こえる。イチジクの実は熟し、ぶどうの花は香る。恋人よ、美しい人よ。さあ、立って出ておいで。」
                                                                                                             【雅歌2章10~13節】


 この詩(song)は、花婿(男性)が「愛しい(花嫁)」に対して呼びかけている、一つのラブソングです。「私の最愛の美しい花嫁よ、私の元に来ておくれ!もう冬は終わり、雨の季節は過ぎ去った。春には花が咲きいで、夏は豊かに緑が萌えいで、秋が来る頃には麗しい実を結ぶように、私たちも共に父なる神の大庭に入り、父の祝福にあずかろうではないか!だからすぐにも、私と一緒に進み行こう!」という、かつて「エデンの園」で為された、御子(イエス・キリスト)と、私たちの麗しい「交わり(関係)」を歌っている言葉です。


 御子イエス・キリストは霊的花婿として、常に私たち(花嫁)に対して、同様のラブソングをもって、ある「場」へと招き寄せて下さいます。それはご自身が居ます、父なる神の「大庭(麗しの花園)」に他なりません。私たちが「神の大庭」に、聖霊様を通して招き入れられる時に、父なる神は「花嫁」に対して、私たちの三次元的思考では、思い描くことの出来ない「祝福の産物」を、「実」或いは「種」として用意して下さるのです。


 私たちが立ち返るべきポジション、それは常に父なる神の居ます「大庭」です。「神の大庭」は、いつも開かれています。また「神の庭」の中には、必ず「最上のもの」が食卓に並んでいます。そして中から「花婿」が、あなたの名を呼んでいます。「さー、愛する人よ。すぐにも私の元に出てきておくれ!」と。あなたが喜んで、花婿(イエス・キリスト)の御元に進み行き、父なる神があなたのために、わざわざ用意して下さっている、大いなる「祝福の産物(実)」にあずかることを、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン!


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