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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

全き信仰(No.24)

                                 神の兵法
 


 
ギデオンと彼の率いる全ての民は朝早く起き、エン・ハロドのほとりに陣を敷いた。・・・・主はギデオンに言われた。「あなたの率いる民は多すぎるので、・・・・恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山に去れ、と。」こうして民の中から二万二千人が帰り、一万人が残った。主はギデオンに言われた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らを選り分けることにする。・・・・」彼は民を連れて水辺に下った。主はギデオンに言われた。「犬のように舌で水を舐める者・・・・は全て別にしなさい。」水を手にすくってすすった者の数は三百人であった。主はギデオンに言われた。「手から水をすすった三百人をもって、私はあなたたちを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。・・・・」
                                                                                                              【士師記7章1~8節】
 
 見た目の「現実」は・・・・
 私たちに対する神の大いなる取扱いは、はっきり申し上げて、私たちの理解を超える次元にあります。その殆どが「主よ、これには何の意味があるのですか?」と疑問視する、或いは自分の「現実の姿」を見て呟くなど、無意味なこととして捉える傾向にあるからです。
 
 同様に私たちの「信仰」の行動にも、真の主なる神を仰ぎ見るのではなく、現実の「自分」ばかりを見てしまうことが多々あります。私たちは目に見えざる、麗しい「神の事実」から自分を見るという、客観的な「信仰」の視点に立つことが中々出来ません。
 
 さて主なる神は、ギデオン個人に対して、約束の言葉を伝えました。しかし自分一人だけでは、神の御心を完成することが出来ないことを、十分に承知していた彼は、神に申し出ました。「今からイスラエルの民に、敵と戦うべく兵を招集しますので、集まって来た民の全てに対して、上よりの油注ぎ(戦う力)を与えて下さい!」と。
 
 その結果、全国各地から「我こそは・・・・!」などと、勇者(ツワモノ)たちが集まって来たのです。その中には、ギデオンに対して「召集を発したお前は、一体何処の何者なのか!」と詰め寄る、誇り高き将軍もいたことでしょう。その時彼は「主よ、三万二千人集まったことは、とても良いことですが、何ですか彼らは・・・・。威張った者ばかりではないですか!」などと、愚痴の一つもこぼしたかも知れません。
 
 すると主なる神は、悩み塞ぐギデオンに対して、「あなたが戦うのではない。私自らが為し、これを成就するから、あなたは只待っていなさい!」と励まし、具体的にある「命令」を指示しました。
 
神の「ご計画」の偉大さ
 今回のストーリーから、先ず私たちが学ぶべきポイント、それは人の立てる「計画」と、神の御心によって始められる「ご計画」とでは、各々が遥かに異なった次元にあり、その違いを私たちは常に意識することが先決です。ご存知のように、神の「ご計画」は、インスタント的な「発想」から生じるものではなく、私たちが母親の「胎」に命を宿す前から、主なる神が永遠の愛をもって始められているのです!聖霊様は常に助言します。「人の謀(計画)は所詮、果敢ない世の次元にある故、決してそれに依り頼むこと無かれ!」と。
 
 人の「計画」と、神の「ご計画」の異なる点は、第一に「目に見える物理的概念(数・量)」に左右されるか否かという点です。人の「計画」は必ず、物理的概念をベースにして立案しますが、神の「ご計画」の出発点は、「無(何も無いフィールド)」をベースとします。ですから、自分が一人しかいなくても、聖霊様は「もともとゼロ(無)なんだから、それで良いではないか!あなたという一人の存在が救われたのは、神の大いなる恩寵のおかげだよ。いちいち数字に悩むなど、サタンに騙されてはならない!」などと励まして下さいます。
 
 私たちが人の「計画」として、とかく気にする一、十、百、千、万などの数字が、神の「ご計画」にあっては、何も無い「ゼロ」であるからこそ、神の「御名」が崇められるのではないでしょうか!「無」から「有」を生じせしめた、神の大いなる創造の御業に、私たちは先ず期待する、これが正しい「信仰」の行動です。
 
 人の「計画」の第二の特徴は、目に見える次元にしか、「戦略」を立てられないという点です。つまり「目に見える現実が・・・・だから、戦略(予算、予測、予定行動)は~であるべきだ!」などの論理が、前提条件として謀られるのです。しかし神の「ご計画」は、目に見えざる次元から、既に「神の国」を確かなものとされている故に、私も「偶然に生まれたのではなく、神のご計画によって命を宿し、今このように奇跡的に生かされ、神の恵みが常に守り導いている!」ことを信じて、将来に対する「神の事実(戦略)」に委ね切ることが可能になるのです。
 
神の「兵法」に従った三百人
 では具体的にギデオンは、如何なる「兵法(戦略)」を戴いて、神のプロセスに従ったのでしょうか?先ず第一の「兵法」は、主なる神がギデオンに対して、「集まって来た殆どの者が、空威張りをしているに過ぎない!」ことを示した(3節)ことにより、ギデオンが彼らに対して、「恐れる者は、直ちに立ち去るが良い。ここに留まらなくて結構!」と命じたことに始まります。
 
 すると案の定、彼らの三分の二が立ち去りました。では残った一万人が真の「ツワモノ」かと言えば、表面的には勇者の如くに見えましたが、霊的な面(見えざる領域)においては、神は「良し!」とはされませんでした。ところで私たちも、表面的には信仰者の如くに振るまっていますが、内面的には常に、世のことを心配して(恐れて、気にかけて)生きています。しかし私たちは本来、「何」を畏れべきでしょうか?それは主なる神が為される、真の「秩序(ご計画)」のみを畏れて、正しく(謙遜に)生きることです。
 
 ところが如何せん、私たちは前述した如くに、目に見える「数字」や「事実」のみを、あれこれ栓塞しては怖がるのです。ですからその時には、私たちは襟を正して、聖霊様の「御力」を仰いで、次のように祈り求めるべきです。「私の霊の内に働く、世のことを恐れようとする悪しき霊よ、イエス・キリストの御名により、直ちに立ち去れ!」と。
 
 第二の「兵法」は、「残った者の全員を、水辺に連れて行き、そこで水を飲ませよ!」という、「戦略」とは程遠い内容でした。ギデオンはこの時、聖霊様を通して「知恵」が与えられました。「全員が一気に飲むのではなく、順番(部族ごと、年齢順)に並んで飲ませるように!」と。続いて聖霊様は、彼に次なる指示を与えます。「とにかく飲み方には、二種類のパターンがあるから、人数的に少ないパターンの者を、その都度選り分けておきなさい!」と。
 
 すると殆どの者が、四本足動物(犬などの獣)のスタイルで、顔を水辺に伏せてガブ飲みし始めました。しかし中には、ほんの少数でしたが、周囲を警戒しながら、ゆっくりと片足の膝だけを地に着け、右手には武器を持ったまま、左手ですくって少量の水を飲む、しかし視線は四方を睨んだまま!という、一見変わった行動を採る者がいました。
 
 聖霊様はすかさず、ギデオンに対して「この者たちだ!彼らこそが、霊的に従順なツワモノである!」と示唆しました。その結果、選り分けられた者たちの数は、一万人の中の僅か三百人(3%)でした。ちなみに日本のキリスト者の人口が、何%いるのか定かではありませんが、この日本にも必ず、ギデオンと共に戦った、三百人の「神の勇者(ツワモノ)」、つまり日本人の人口の3%(約三百万人)が救われ、霊的に呼び興されることを信じます!
 
 「九千七百人」と「三百人」という、二種類を選り分けられた神の「兵法」は、「兎と亀」の喩え話に似通っています。「兎」の霊的失敗は、九千七百人のツワモノと同様、己の判断を頼みとする「油断」にあります。それに対して「亀」の霊的特性は、最初から自分が、何も無い「ゼロ」であるからこそ、神の「恵み」を頼みとして、一歩一歩と着実に歩んで行く!という、真の「へり下り(謙遜)」にあります。
 
同じように若い人たち、・・・・皆互いに謙遜を身に着けなさい。何故なら「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。・・・・身を慎んで目を覚ましていなさい。あなた方の敵である悪魔が、吠え猛る獅子のように誰かを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって悪魔に抵抗しなさい。・・・・あらゆる恵みの源である神、即ち、キリスト・イエスを通して、あなた方を永遠の栄光へと招いて下さった神ご自身が、しばらくの間苦しんだあなた方を完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことが無いようにして下さいます。
                                                                                                     【Ⅰペテロ書5章5~11節】
 
 私たちの相対する「敵」は、勿論「サタン軍」です。彼らの「戦略」は必ず、「現実(目に見える事実)」という名の、霊的「ごまかし」をもって攻撃してくることです。しかし私たちの「霊の眼」が、しっかりと向けるべき対象、それは「現実」ではなく、目に見えざる神の領域にある、父なる神の圧倒的な力強い「御手」、イエス・キリストの「愛の眼」、聖霊様の力強い「御腕」です!私たちは常に、そのような神の「事実」のみを見続けること、これが正しい「信仰」の行動です。
 
 ご存知のようにイエス・キリストこそが、私たちの霊的花婿です!真の花婿は、花嫁(私たち)を放っておくことは決してありません!この神の「事実」に立って、私たちは「現実」に心奪われること無く、互いに身を慎みながら、謙遜に励まし合って、終末の霊的戦いにおいても、「勝利」することの出来る、神の「兵法」を、更に戴いて参りましょう!あなたが毎日、ギデオンの三百人の「勇者」として、聖霊様によって仕立てられ、かつ強められて行くことを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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