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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の時(No.29)

                  真のシェルターに逃れる時



 
ところが、エリコの王に、「今夜、イスラエルの何者かがこの辺りを探るために忍び込んで来ました。」と告げる者があったので、王は人を遣わしてラハブに命じた。「お前のところに来て、家に入り込んだ者を引き渡せ。彼らはこの辺りを探りに来たのだ。」女は、急いで二人をかくまい、こう答えた。「確かに、その人たちは私のところに来ましたが、私はその人たちが何処から来たのか知りませんでした。・・・・」彼女は二人を屋上に連れて行き、そこに積んであった亜麻の束の中に隠していたが、追っ手は二人を求めてヨルダン川に通じる道を渡し場まで行った。城門は、追っ手が出て行くとすぐに閉じられた。 
                                                                                                       【ヨシュア記2章2~7節】
 
「ラハブ」という名
 私たちは、この「ヨシュア記」を通して、主なる神による「命」の贖いと、「全て」に渡って、神の「救い」の時が用意されていることを、順を追って学ぶことが出来ます。そして今回は、神の「救い」の源となる、霊的な出発点を物語る出来事が描かれています。
 
 今回のストーリーにおける重要人物、それが「ラハブ」という一女性(婦人)です。「ラハブ」という名は、ヘブライ語で二つの意味があります。第一に物凄く広いという、素晴らしい意味です。第二の意味、これは第一の意味とは、全く次元の異なる概念で、「嵐」という意味です。
 
 この「ラハブ」という言葉の持つ第一の霊的奥義、それはヘブライ語の第一の意味から連想することが出来ますが、父なる神の「無限の(広大な)愛」を示しています。それに対して、私たち「人」の持つ愛は、断片的(限定的)で、条件によっては消え去るものです。ところが主なる神の「アガペー(神の愛)」は、私たちが罪深き、裏切者(霊的に浮気者)の如き者であっても、無条件に奥深く注がれるものです。そして、それは決して違えるこのとの無き、揺ぎ無き広大な愛をもって、永遠に愛し続けるものなのです!
 
 次に第二の奥義は、父なる神の「愛」には、必ず「贖い」という、霊的キーワードが存在することです。つまり「ラハブ」、イコール「神の贖い」を意味します。如何なる者をも、必ず「救い出す(贖う)」ことの出来る、広大な心を示しています。ここに真の「希望」があります。
 
 これから益々「この世」は、ノアの大洪水の時以上に、創造主なる神を無視する(霊的に拒絶する)時代に突入しています。そんな時代の中にあって、私たちに対する神の「贖い」こそが、唯一の「希望」であり、「救い」の原点です。そういう意味で、私たちキリスト者もラハブの如くに、神の「贖い」を現す、「救い」の避難所(シェルター)にならなければなりません!
 
 いずれ終わりの時には、「この世」から逃れて来たアウトサイダー、医者から見放された難病患者など、そのような弱き人々が多く、真の創造主なる神の「救い」を求めて、「教会(霊のシェルター)」に群がって来ることを、あなたは信じていますか?また、その為に準備していますか?


 何故、彼らは来るのでしょうか?イエス・キリストによる、「贖い」の御業が、そこに行けば必ず現されるからです。そこには、父なる神の「愛の臨在」があり、御子イエス・キリストの「親しい交わり」、聖霊様による「助け」と「守り」が、確実に保証されているからです。これが真のエクレシアの姿です!
 
ラハブの「シェルター」
 エリコの住民であったラハブは、何故「同朋」を恐れることよりも、イスラエルの二人の斥候をかくまう程に、イスラエルの神を畏れ敬ったのでしょうか?それは、私たちキリスト者も同様ですが、主なる神の中にこそ、真の「救い」の力があり、常に私たちを守って下さる!という、大いなる「上」よりの信仰を、ラハブは既に戴いていたからです。
 
 ところで神の霊の次元において、私たちが備えるべき霊的戦いの武器、それは一体「何」でしょうか?この時のラハブは、「何」も戦いの備えをしませんでした。彼女はただ「赤い紐」を、家の窓にぶら下げただけです。第三の奥義、それは神の「覆い」という働きが、今回のストーリーの中に示されていることです。つまり、如何なる「嵐」や「敵」からも、身を守ることの出来る、神の「救い」の御翼が、私たちを常に覆っているという働きです。
 
 これから自然的な「嵐(異常気象)」、そして経済的な「大嵐」が、吹き荒れる時代の中にあっても、主なる神の「御翼」の陰に覆われる限り、私たちは必ず守られます!私たちもラハブ同様に、父なる神の「贖い」によって、今は既に贖われた民として歩んでいるのです。そういう意味で私たちは、如何なるものをも恐れること無く、堂々と神の「救い」のみを見続けましょう!
 
 ラハブにとって真のシェルター、それは自分の「家(館)」でした。エリコの「王」が、街を取り囲む城門の全てを閉ざして、如何なる者の通行(立入)を不可能にしたとしても、彼女の「館」の天窓だけは開かれていました。そうです!私たちの「エクレシア号」は、今の時代の大嵐の最中にあっても、既に船出し、荒れ狂う大波の中を前進していますが、その中で「天の窓」、即ち神とのライフラインは、常につながり開かれています。
 
 そういう訳ですから私たちは、常に感謝しようではありませんか!私たちの真の「救い」は、「上(天)」にあるのです。「この世」のことで心が奪われ、もしあなたの「霊の眼」が開かれないのであれば、聖霊様の「助け」を仰いで、「上」を見上げて下さい。そうすれば必ず、「上」よりの力が注がれ、あなたの「霊の眼」は見えるようになります!「神の時」は、これから益々縮小して行きます。そして神の「救いの時」も、いよいよ閉じられる終末の時代の中にあって、私たちは天上にある、神の「救い」のみを依り頼む信仰が、非常に重要となります。これが霊の戦いの武器となるからです。
 
「真のシェルター」に逃げなさい!


いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人よ。主に申し上げよ。「私の避けどころ、砦。私の神、依り頼む方」と。神はあなたを救い出して下さる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばって下さる。神のまことは大盾、小盾。夜、脅かすものをも、昼、飛んで来る矢をも、恐れることは無い。暗黒の中を行く疫病も、真昼に襲う病魔も。あなたの傍らに一千の人、あなたの右に一万の人が倒れる時すら、あなたを襲うことは無い。あなたの目が、それを眺めるのみ。神に逆らう者の受ける報いを見ているのみ。あなたは主を避けどころとし、いと高き神を宿るところとした。あなたには災難も降りかかることが無く、天幕には疫病も触れることが無い。主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせて下さる。彼らはあなたをその手に載せて運び、足が石に当たらないように守る。あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んで行く。「彼は私を慕う者だから、彼を災いから逃れさせよう。私の名を知る者だから、彼を高く上げよう。彼が私を呼び求める時、彼に答え、苦難の襲う時、彼と共に居て助け、彼に名誉を与えよう。生涯、彼を満ち足らせ、私の救いを彼に見せよう。」 
                                          【詩篇91篇】
 
 何度も繰り返しますが、神の「救い」に、真の希望があります!そして神の「救い」は、あなたの呼び求める、純粋な霊的飢え渇きに対して、「上」よりの恵みをもって、常に開かれ注がれること、これを是非覚えておいて下さい。主イエス・キリストこそが、私たちの真のシェルターです。私たちは、イエス・キリストの御許に、直ちに馳せ参じ、神の御翼の陰に宿ることを、信仰の歩みの常としましょう。
 
 あなたが、主なる神の豊かな「救い」を、全身全霊で受け留め、かつ飢え渇く多くの魂に、神の「救い」を分かち与えることの出来る、ラハブの如き賢い乙女でありますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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