バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

全き信仰(No.23)

                             二つのしるし
 
 
 
ミディアン人、アマレク人、東方の諸部族が皆結束して・・・・イズレエルの平野に陣を敷いた。主の霊がギデオンを覆った。ギデオンが角笛を吹くと、・・・・人々もまた彼に従って集まって来た。・・・・ギデオンは神にこう言った。「もしお告げになったように、私の手によってイスラエルを救おうとなさっているなら、羊一匹分の毛を麦打ち場に置きますから、その羊の毛にだけ露を置き、土は全く乾いているようにして下さい。・・・・」すると、そのようになった。・・・・ギデオンはまた神に言った。「・・・・もう一度だけ羊の毛に試すのを許し、羊の毛だけが乾いていて、土には一面露が置かれているようにして下さい。」その夜、神はそのようにされた。
                                                                                                          【士師記6章33~40節】
 
 人は目に見える「事実」を恐れる
 実はギデオンの「信仰」は、イスラエルの民が目に見える「敵」を恐れるに対し、全く何者をも恐れず、主なる神のみを畏れるものでした。それ故、彼は神の「ご計画」を優先しながら、一つのことを計り(謀り)ました。
 
 ご存知のように「謀りごと」は、余り良い響きの言葉ではありませんが、彼の場合は「謀りごと」を通して、霊的に自分の「信仰」を、主なる神に試した訳です。つまり彼は、主なる神の「御心」を知った上で、神と共同してイスラエルの民を、良い意味で励ますために騙したのです。
 
 私たちは目に見える「敵(事実)」に関しては、最初から恐れて逃避する弱さがあり、例えば「主よ、どうぞ今の問題(事実)を、たちどころに解決して下さい!そうすれば、私たちは前進できます。」などと願い出て、「敵」と戦う以前に、問題の排除を祈ることが多々あります。
 
 この時のイスラエルの置かれた状況、それは様々な「敵(現実)」の軍勢が一気に集結し、もはや全滅か!という危機迫る最中でした。同様に「現実」という言葉ほど、私たちを打ちのめすものはありません。信仰の全面的回復に至るためには、この「現実(目に見える事実)」を恐れず(見ず)、目に見えざる、神の霊的領域にある「神の事実(働き)」のみに、私たちの「霊の眼」を向ける(視座を転換する)ことです!ギデオンは幼少の頃から、そのことを明確に学んでいたのではないでしょうか。
 
 このように「現実」と「神の事実」という、相交わらない世界の中で、私たちは生きています。ところで「現実」の反意語、それは「非現実」と言いますが、最近の気象予報官は、予測不能な巨大気象現象に対して、非現実的な言葉(情報)をもって、例えば「気象観測以来、予想できない巨大台風に発達する可能性がありますから、命を守る行動を取って下さい!」などと、早めの待避勧告を通知することが多くなりました。つまり「非現実」的な事態に対しては、権威ある人も恐れる訳です。
 
聖霊の「覆い」
 今回のストーリーの中に、ある重要な信仰の原則が記されています。それは「主の霊がギデオンを覆った。」(34節)という内容です。聖霊様の「油注ぎ」、また「満たし」を受けるなどの、聖霊様による霊的働きは、聖霊の「覆い」と呼びます。ところで何かに「覆われる」とは、寒い時期でしたら暖かな衣類や、分厚い毛布等をイメージします。しかしそれらは逆に、夏の熱い時期になりましたら、「覆い」を取り除けるなど、「抵抗感」を感じるものになります。何故なら「覆う」という概念の中には、コントロールする意味も含み、対象物(覆われる側)を身動きの取れない状態にするからです。
 
 ギデオンは「二つのしるし」を、主なる神に願い出ました。彼は、先ず土地(麦打ち場)の上に「羊毛」を置きました(一部分の地を覆うこと)。そして次に彼は、不思議な要求を神に申し出ます。第一回目が「羊一匹分の毛を麦打ち場に置きますから、その羊の毛にだけ露を置き、土は全く乾いているようにして下さい。」(37節)と。第二回目が「羊の毛だけが乾いていて、土には一面露が置かれているようにして下さい。」(39節)と。ここから分かる、私たちが学ぶべき奥義、それは主の霊が「覆う」ことは、全ての支配権を聖霊様に委ねることを意味します。これは聖霊に対する、霊的な明け渡しのことです。
 
 私たちが「聖霊様」を求める時、それは聖霊様の「力」を利用(拝借)することではありません!また「聖霊様」は、私たちの霊的オマケでもありません!ですから「聖霊様」を求める時の祈りは、「私を完全に満たし覆って下さい!私という思いが無くなる程にまで、あなたの聖なる覆いを期待します。」という、霊的な明け渡しの表明になるのです。このような霊的に砕かれた謙虚な信仰姿勢が無ければ、私たちは「聖霊」に覆われることがありません。
 
 ギデオンの場合は、一方的に主なる神の「霊(聖霊)」に覆われ、「その時」に知恵の言葉が与えられたのです。私たちの「肉の力」を完全に断つためには、常に聖霊様による「支配権」を求めて、自主(自己)権の明け渡しの祈りを、朝起きた時から為す務めが、私たちにはあるのです。ギデオンはイスラエルの民の殆どが、「敵」の襲来に怖気づいているのを分かった上で、神の知恵に基づいた、不思議な信仰行動を為しました。
 
二つのしるし
 ご存知のように、「羊毛」などの繊維は、非常に「湿度」を好みます(湿度を吸収し易い)。それ故イスラエルの民も、あえて夜中に「羊毛」を外に出す(干す)ことはしません。そういう意味で、ギデオンの為した第一の行動は、彼らにとって不思議というより、常軌を逸した愚かな行動に見えたことでしょう。主なる神は、ギデオンの第一の要求(信仰)に応えて、「羊毛」にだけ露を降らせ、麦打ち場は全て乾燥した(露気が全くない)状態を出現させました。
 
 それでも疑い続けるイスラエルの民に対して、ギデオンは第二の行動を見せます。「(信じられない)ならば、今晩ずっとこの私を見張っておきなさい。私が意図的に為した訳ではなく、主なる神が為されたことを、あなた方は明日の朝、確認することになるから。」と言って、第二の要求(信仰)を神に祈りました。「主よ、あなたが真の神であるならば、第一回目の時とは逆の現象を起こして下さい!」と。すると神は、「羊毛」にだけ露を降らせず、麦打ち場は全て露が降りた状態を出現させたのです。
 
 その結果イスラエルの民は、目前の「敵」にではなく、見えざる真の神の前に降参したのです。私たちも、神の為さる「不思議」の意味することを、霊的に学ぶ必要があります。先ず見える事実に対抗する信仰が、私たちに必要となり、それは「戦う」ことではなく、対抗する(決して怯まない)ことです。
 
 では具体的には、如何なる「信仰」を指すのでしょうか?それは見えざる事実を明らかにして下さる、真の神の「主権」を求める信仰のことです。覚えて戴きたいことは、「敵」や見える事実に、神の「主権」がある訳ではありません!目に見えざる神が、目に見える事実をも支配し、全ての「事」を神の「御心」のままに、良きにも悪しきにも変えて下さることを、純粋(素直)に信じること、これが見える事実に対抗する信仰なのです。「敵(否定的に思える現実)」を、私たちが「肉の眼」で見る限り、それは怯み続けて後退する行動になります。しかし私たちの主なる神は、何も無きところから、豊かな「恵み」の数々を、天上から降り注いで下さる方です。
 
 「羊毛」にしても「地」にしても、それが露で濡れているか否かは、ある面で「裏」と「表(おもて)」の状態を指します。霊的に「裏」とは、目に見えざる事実のことで、「表」とは目に見える事実のことです。「裏」であろうが「面」であろうが、その全てを支配される、主なる神を信じること、これが神の「主権」を信じる信仰です。たとえ「表」が濡れていても、「裏」は濡れていないこと、又ある部分が濡れていても、この部分は濡れていないこと、これが神の見えざる不思議な「働き」なのです。
 
 私たちは肉眼で、「露」が降りる瞬間を捉えることが出来ません。しかし聖霊様だけが、神の「主権」の働きを、私たちに豊かに現して下さるのです。これが聖霊様による、霊的「覆い」の働きです。ですから例えば、経済的に苦境にある時に、私たちは「今の苦しい状態(目に見える事実)を取り除き、神の祝福を豊かに与えて下さい!」などと祈りがちですが、「今」の状態を、決して「呪い(敵)」と捉えないで下さい。経済的に苦しい時、それは「呪い」ではなく、主なる神が私たちの信仰を、もっと更に高度なレベルに引き上げるべく、見えざる「神の事実」に導いている時なのです。
 
 神の「恵み」の殆どが、目に見えざる次元にあります。しかし、この目に見えざる「神の事実」が、明らかに「過去」においても、「今」においても、「将来」に至るまで、豊かなものとして私たちを導くのです。何故なら私たちは、神の「霊(聖霊)」に覆われているからです。神の「霊」に覆われるところに、主なる神の豊かな「救い」、親しき「交わり」と「平安」が、常に降り注がれるのです。
 
 あなたが、主なる神の「霊(聖霊)」に導かれながら、目に見えざる神の「主権」を求めて、如何なる「敵」をも恐れず、ひたすら前進できる者でありますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する