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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

全き信仰(No.16)

                    子羊の血潮を門に塗る



 
モーセはイスラエルの長老を全て呼び寄せ、彼らに命じた。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝まで誰も家の入口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡る時、鴨居と入口の二本の柱に塗られた血をご覧になって、その入口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことが無いためである。あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束された通り、あなたたちに与えられる土地に入った時、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねる時は、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれた時、エジプトに居たイスラエルの人々の家を過越し、我々の家を救われたのである』と。」民はひれ伏して礼拝した。それから、イスラエルの人々は帰って行き、主がモーセとアロンに命じられた通りに行った
                                                                                             【出エジプト記12章21~28節】
 
 子羊の「血潮」の重要性
 今回与えられている、主なる神の「ご命令」は、私たちが常に覚えておくべき、基本的な信仰行動です。ましてや今日の如き、激動の時代の中にあって、もしかしたらあの「忌まわしき獣(反キリスト)」の台頭が、間近に迫りつつあることを考慮するならば、やはり子羊(イエス・キリスト)の貴い血潮の存在が、如何に重要となって来るのか、これを改めて知るべきではないでしょうか?
 
 そうです!私たちは常に、子羊の「血潮」の守りがあるからこそ、神の「平安」の中で、大胆に前進できるのです。たった一頭の子羊の「血潮」を、私たちの霊の宮の「鴨居」に塗るだけで、私たちはあらゆる「困難」と、「迫害」の中にあっても、それら「全て」が過ぎ越されるのです。
 
「玄関(ゲート)」に血潮を塗る
 さて私たちが、今回のストーリーから学ぶべき、重要な奥義となるキーワード、それは「玄関(門)」です。この「門(ゲート)」は、何のために造られているのでしょうか?勿論、それは①私たちが「只今!」と帰って来るためにあります。また②「行ってらっしゃい!」と促されながら、出かけて行くためのものです。
 
 このように「ゲート」は、第一に「入口」として使用されます。余談になりますが、この「ゲート」を、いつも清潔にしておくことで、実は突然の訪問者(来客)に対して、好印象を与えるか否かが決まりますので、やはり玄関は「入口」として、重要な働きを担っていることが分かります。
 
 第二に「出口」としての働きがあります。そして第三の働き、これが一番重要となるものですが、「守り」としての役割を果たす、つまり外部から入って来るものを遮断し、「家」の内側に侵入されることが無きよう、「砦」の如き働きを成します。これら三つの働きを覚えながら、主なる神のイスラエルに対する、驚くべき「救い(贖い)」のご計画を、私たちは今回の記事から、改めて知ることになります。
 
 しかし、覚えて戴きたい「歴史時事実」としては、当時のエジプトに暮らす、イスラエルの人々にとって「門(ゲート)」とは、ある恐怖の「記憶(トラウマ)」を呼び覚ますもので、しかも「血潮」とセットで考えることは、更に避けたいことの一つでした。
 
 それはモーセが誕生したばかりの、赤子の時に起こります。即ち、ヘブライ民族の「男子」のみに起きた、大量殺りく処分という、ファラオによる苛酷な命令でした。その結果、ヘブライ人の各家庭の「玄関」を、突然エジプト兵が押し入って来て、男子の赤子を捜索しては、次々とその場で殺りくする・・・・。そして、「赤子」の血潮が床に飛び散るなど、ナチスの「ホロコースト」に見られる民族浄化が、この時も実行されたのです。
 
 実は、同様の出来事が今日の時代も、まさにサタンによって、引き起こされていることを、ご存知で(気付いていらっしゃる)しょうか?このサタンは、私たちキリスト者を「この世(エジプト)」と、霊的に妥協させることで、世の花嫁として仕立て、最終的には反キリストに、忠実に仕える「山羊」の群れへと整えるべく、自分に従わない「真のキリスト者」を、次々に迫害しながら、完全に抹殺することを目論んでいます。
 
 しかし私たちキリスト者が、今の時からでも、純粋に神の「ご命令」を遵守し、私たちの霊的神殿の「玄関」に、贖いの子羊(イエス・キリスト)の流された、貴い「血潮」を塗るのであれば、来たるべき時にも、決して恐れる必要は無いのです!
 
 ところで、私たちにとっての「ゲート」とは、何を指しているのでしょうか?それは「霊」の入口となる「口(唇)」と「耳」、そして「目」のことです。それ故に私たちの「目」が、目に見える事実にではなく、目に見えざる神の豊かな働き、そして豊かな「御心」を常に求めるべく、子羊の「血潮」を目に塗り(注ぎ)ます。続いて「耳」の場合は、この世の汚れた「情報」や、人の語る「言葉」に左右されるのではなく、聖霊様の「御声」のみに、純粋に聞き従うべく、子羊の「血潮」を、同様に耳にも塗り(注ぎ)ます。
 
 主なる神の最後の「裁き(審判)」は、唯一の贖いの子羊であられる、主イエス・キリストの、貴い「血潮」をもって始められ、霊的長子でもあるイエス・キリストを通して、既に「完成」へと至っています。ですから、イエス・キリストを信じる「信仰」によって、私たちは如何なるものをも、恐れる必要はありません!
 
イエス・キリストの「血潮」を注ぎかけましょう!


信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことが無いように、過越の食事をし、子羊の血潮を振りかけました。
                                                                                                            【ヘブル書11章28節】

 
 この御言葉を、モーセの信仰行動に焦点を当て考えると、モーセはヘブライの民(各家庭)に対して、次のような信仰宣言(促し)を、大胆に語ったのではないでしょうか!「この血は、主なる神が命じられた唯一のものであり、聖なる贖いの生贄によるものである!かつて、あなた方が見た(経験した)、恐怖の血潮ではない。主なる神が定めた、この聖なる血潮を、死を司どる天使が見たならば、必ずあなた方の家は過ぎ越され、全員が救われる。それ故あなた方は、ただ信じて各家庭ごとに子羊を屠り、その血潮を聖めて、鴨居と入口の二本の柱に塗りなさい!」と。
 
 パウロが明言するように、私たちは「イエス・キリスト」という、最初で最後の「生贄」となられた、贖いの子羊の「血潮」を、霊的に塗られた(注がれた)「霊の初穂」です。それ故に、常に神の「守り」があるのです。
 
 と言うことは、私たちは主イエス・キリストの「来臨の時」まで、片時も忘れること無く、この子羊の「血潮」を、私たちの「唇」から「耳」と「目」、そして「霊の眼」から、「霊の耳」と「霊の唇」に至るまで、あらゆる「体(器官)」の各部分に、信仰をもって塗る(振りかける)のです。そうすることで、私たちは更に主イエス・キリストを、奥深く豊かに感じ取り、喜んで御顔を仰ぎ求めることが、いつも出来るようになります。
 
 モーセがこの時、イスラエルの全家に対して、子羊の「血潮」を整えた如くに、私たちも聖霊様の号令の下に、霊的に準備して参りましょう!霊の食卓に、主イエス・キリストの「血潮」を注ぐのです。そして互いに「血潮」を注ぎかけ、信仰の言葉をもって叱咤激励し合いましょう!「私たちは、如何なる状況の中にあっても、主イエス・キリストの血潮の守りがあります!」と。
 
 主イエス・キリストの豊かな臨在と、聖なる血潮の守りが、あなたの日々の信仰生活の歩みの中に、豊かに注がれますように。そして聖霊様を通して、主イエス・キリストによる過越の血潮を、豊かに用いることが出来ますように。イエス・キリストの「御名」によって、子羊の「血潮」を大胆に用いることの出来る神の兵士として、あなたが益々祝福されることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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