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命と心の健やかなる成長のために!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

全き信仰(No.15)

                         影ひなた無き信仰
 



主はモーセに言われた。「私は、尚もう一つの災いをファラオとエジプトにくだす。その後、王はあなたたちをここから去らせる。いや、その時には、あなたたちを一人残らずここから追い出す。」・・・・モーセは言った。「主はこう言われた。『真夜中頃、私はエジプトの中を進む。その時、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。・・・・大いなる叫びがエジプト全土に起こる。・・・・』しかし、イスラエルの人々に対しては、犬ですら、人に向かっても家畜に向かっても、うなり声を立てません。あなたたちはこれによって、主がエジプトとイスラエルを区別しておられることを知るでしょう。・・・・」そして、モーセは憤然としてファラオのもとから退出した。
                                                                                              【出エジプト記11章1,4~8節】
 
 「暗き(かげ)」と「明るみ(ひなた)」
 「この世」を頼みとする人々は、今の日本の「先行き」が不透明な時代の中で、恐らく私たちキリスト者が抱くものより、遥かに遠い次元の中にある、「不安」と「恐れ」を抱きながら、日々を生きているのではないでしょうか?
 
 私たち「人」は、目に見える次元(物理的なもの、数値など)には、何らかの対処を施すことで強くなれますが、目に見えざる次元に関しては、「不安」と「恐れ」が大きくなり、私たちは弱くなりがちです。
 
 何故「人」は、このような心理に陥るのでしょうか?それは、目に見える数値やデータがあれば、「先行き」を見通せる(計算できる)などの、いわゆる「拠り所」があるのに対し、目に見えざる次元、それは文字通り「盲人」の如き状態であるが故に、「先」を歩くことが出来なくなる!と思うからです。
 
 今回学ぶべき第一の奥義、それは「人」というものが、目に見える「明るみ」においては、必ず何らかの態度(姿勢)を装うのですが、「暗き」にあっては、逆に「本性」を現すという点です。「明るみ(ひなた)」にあっては、目に見える情報のみが、あたかも「真実」であると認識するため、私たちは無理な「装い(パフォーマンス)」を取ってみたり、例えば本当は辛い状況にあるにも関わらず、つい「大丈夫です!」と偽るなどの行為を取ります。
 
 しかし「暗き(かげ)」にあっては、目に見えるものが無い訳ですから、つい「本性」を現すなどの油断が生じます。では、主なる神に対する私たちの「信仰」にも、このような「ひなた」と「かげ」という、区別した行動があるのでしょうか?答えは「多くある!」です。
 
 ところで「罪」を犯す以前の、本来の人「アダム(エバ)」は、如何なる信仰の行動を取っていたのでしょうか?ご存知のように彼らには、「ひなた」と「かげ」の行動が、全くありませんでした。何故なら彼らは、常に「真の光」なる方に覆われ生きていたからです。勿論彼らの生活サイクルにも、「夜」の暗闇の時は訪れます。しかし彼らにとって「暗闇」イコール、聖なる「安息(休息)」の眠りの時でした。そして彼らは起床した時、先ず神の御前に出て跪き、主なる神の「御顔」を見ることを、日々の務めとして求めたのです。
 
 ところが彼らは、サタンの誘惑に引っ掛かり、「罪」を犯した結果、それまでの行動から逸脱し、真の光なる神から「隠れる」という、逆の行動に出ました。その結果、彼らは神の御前に出て、神の「御顔」をることが、恥ずかしく思うようになりました。つまり彼らは、それまで見ることの無かった、「裏(かげ)」の部分を求め始めたのです。
 
 「かげ」とは、罪が生み出した自分の「本性(欲)」のことです。これは例えば「神との時間も大切だが、自分の時も大切にしよう!神の時は、後からでもいいや。」などと思うことです。ご存知のように「恥ずかしさ」は、自分の中にある「本性(裸の部分)」が、他人に見られたくない!と思う気持ちです。
 
 これが善悪を知ることで始まった、「罪」を犯した人の最初の行動です。私たちは見られている心理と、見られたくない心理の、二つの「心」の動きの中で、様々に葛藤しながら生きています。それと同時に、私たちの「信仰」の弱さの中には、神の御前に無理して「装う(見せる)」心理も、働いていることがあるのではないでしょうか!これが神の御前における、「かげ」と「ひなた」の行動の正体(根本原因)です。
 
 彼らは「罪」を犯した結果、それまで得ていた様々な、霊的タラントを失った訳ですが、主なる神に問い質された時、「肉の眼」において神の「御顔」を、直接見ることが出来たのでしょうか?実は未だ見ることが可能だったのです。
 
 ところが、「エデンの園」を追い出された時点で、彼らの「肉の眼」から、その天的機能は失われます。私たちが「明るみ」において装い、「暗き」において本性を現すという、この霊的弱さを認める時に、モーセが如何にして、人間的「恐れ(明るみ)」を克服し、見えざる神の「権威」のみを畏れて、前進することが出来たかを体験する、つまり「影ひなた無き」信仰によって、生きることが可能になるのです。
 
「目に見えざるもの」を見る信仰


信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。
                                                                                                            【ヘブル書11章27節】

 
 この御言葉には、モーセが目に見えざる神を、まるで目の前に居る存在として見続け、この方に全面的に信頼しながら、如何なる人間的権威(権力)を恐れずに、忍耐しながら対処したことが記述されています。
 
 モーセにとって主なる神は、いつでも自分の「弱さ」を補って下さり、「天(上)」よりの御力をもって常に助けて下さる方、そして何よりもイスラエルの民に対して、決して「災い」を及ぼすことが無いことを、自分が語る(杖を投げる、手を挙げる)などの信仰の行動を通して、必ず保証して下さる方であることを、彼は体験(霊的に知る)していたからこそ、このような記述として、事実の記録を残すことが出来たのです。
 
 では私たちが、目に見えない方(かげの如き存在)を、まるで目に見える(ひなたの)存在として信じるためには、どうしたらよいのでしょうか?ご存知のように、今の時代は霊的に「暗き」、即ち「日影」の如き時代です。そして、「マモン(金権主義)」のみを追い求める時代の中にあって、主なる神があえて私たちキリスト者を、霊的「日影」の中に置いている理由、それは神ご自身が熱情の愛をもって、陶器師の如くに直接練り聖めて下さる!この信仰が、あなたの中に培われることを、神が願っておられるからです。
 
 「この世」において、主なる神のみを追い求める信仰では、目に見える祝福は余り無いのですが、あたかも目に見えるものとして、「私は常に、主なる神の大いなる(目に見えざる)霊的祝福を戴いている!」と告白することです。それは、「ほら吹き」の如き言葉ではなく、実際に「主なる神の居ます、天の都が見えます。私も、そこを目指して歩んでいます!」と、大胆に告白していく信仰のことです。
 
 とは言っても、私たちは「目に見える食糧」などを、日々求めながら生きる弱さもある訳です。しかし覚えて下さい!目に見えざる神の大いなる霊的領域は、私たちが「肉の眼」を閉じなければ、見えてこない次元に存在します。それ故私たちは信仰を働かせ、肉の次元に頼ることを拒絶しましょう!私たちが、目に見える事実に頼って歩むことは、忍耐を必要としない、いとも簡単な生き方(easy way)です。
 
 主なる神が、私たちを「今」の時代にあって、霊的に練り聖めて下さる理由、それは目に見えざる方を、豊かに(瞬時に)キャッチできる、天上の信仰を再び与えるためです。インマヌエルの神は、まさしく今に生きる私たちの「信仰」を練り聖め、「霊の眼」をもって、目に見えざる「神の事実」を、確実に見ることの出来る器へと、造り変えようとしておられます。
 
 モーセは常に主なる神を、臨在の神として御前に拝し、真の神に対して態度を変えることがありませんでした。彼が神のみを畏れた最大の理由、それこそ彼の「肉の眼」が、神を(目に見える対象として)捉えていたからです。
 
 私たちは「エジプト」に戻って、「エジプト」を見ることが、決してありませんように!あなたが常に、イエス・キリストのみを畏れ、イエス・キリストの御名にのみ、依り頼むことが出来ますように。イエス・キリストが、まさしくあなたの「兄貴(長兄)」として、あなたを守り贖い続けて下さる、このことだけを信じて歩むことが出来る、即ち陰ひなた無き信仰が、更に豊かに注がれることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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