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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

全き信仰(No.11)

                          神の祝福の順序
 



イスラエルの目は老齢のため霞んでよく見えなかったので、ヨセフが二人の息子を父の元に近寄らせると、父は彼らに口づけをして抱きしめた。イスラエルはヨセフに言った。「お前の顔さえ見ることができようとは思わなかったのに、なんと、神はお前の子供たちをも見させて下さった。」ヨセフは彼らを父の膝から離し、地にひれ伏して拝した。ヨセフは二人の息子のうち、エフライムを自分の右手でイスラエルの左手に向かわせ、マナセを自分の左手でイスラエルの右手に向かわせ、二人を近寄らせた。(しかし)イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。・・・・ヨセフは、父が右手をエフライムの頭の上に置いているのを見て、不満に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。・・・・ところが、父はそれを拒んで言った。「いや、分かっている。私の子よ、私には分かっている。・・・・」
                                                                                                        【創世記48章10~20節】
 
 人の考える「順序(順番)」
 私たちが考える「順序(順番)」というものは、例えば年功序列に見られるように、「数字(年齢)」や「実力度」などに左右されがちです。特に兄弟関係の「順序」に関しては、「長子」が先に尊ばれる傾向にあるのではないでしょうか!
 
 ところが、私たちが今回の記事から学ぶべき神の「順序」は、父なる神が「御心」の内に考えておられる、祝福を受け継ぐ「順序」というものが、私たち「人」の考えにはない!ことを教えています。人間というものは、とかく「一番」「二番」などと、様々な事柄に順位付けをする習性があります。
 
 どうしてでしょうか?それはアダム(エバ)の犯した、「罪」から発生しています。つまり、サタンによって組み込まれた「自分の方が優れている!」と自負する、悪しき考え方から、自分以外の他者は全て劣る!と見なす、そのような思考に陥っているからです。
 
「杖」を支えとしたヤコブの信仰
 ご存知のようにヤコブは、兄(エサウ)の長子の「権威(順位)」を奪った者です。しかし母リベカの信仰は違いました。つまり彼女は、「兄は必ず弟に仕えるようになる!」という、主なる神の「御言葉(神の秩序)」に従ったのです。ヤコブの場合は、母の言葉に従った結果、彼の持つその霊的頑なさ故に、主なる神によって多くの年月を経る程の、霊的訓練を受けることになります。
 
 そしてある時、彼は主なる神の「使者」と格闘しますが、彼の肉体的「力」を支えている、股関節及び坐骨が、神の「使者」によって打たれた結果、彼は両足で全く立つことの出来ない、身体障害者になりました。彼はその後、どのようにして歩行したのでしょうか?彼は常に「杖」の支えが無ければ、一歩も先に歩めない状態ということで、この「杖」の存在が、非常に彼のその後の「人生」を、左右することになります。
 
 今回の記事に示されているように、彼は老齢期を迎え、遂に「床」に伏す程、体力の低下が見られました。そして息子(ヨセフ)に相対した時に、神の祝福を授ける旨を伝え、ヨセフの子供たちを連れて来るよう命じました。ヨセフは分かっていました。いよいよ「父(ヤコブ)」が臨終を迎える時に、ヤコブの孫(ヨセフの息子)たちの前で、最愛の息子(自分のこと)を赦し、かつ祝福の祈りを授けて下さるに違いない!と。
 
 つまり「孫はオマケみたいなもので、先ずは自分だ!」などと、彼は考えていたかも知れません。ところが実際は、「ヨセフよ、全ては分かっている。だがな。主なる神は、お前の息子二人を連れて来るように!と、おっしやっているのだよ。」と、父が少々変わった言葉を述べたのです。
 
 するとヨセフは、「まーいいだろう。息子の後で、私の為にも祈ってくれるだろうから・・・・」と、少しは思いを改めました。そして「よし、では先ず長男(マナセ)の為に。その後に次男(エフライム)を・・・・」などと思いながら、長子マナセをヤコブの右手(ヨセフから見て左側)の方向に、そして次男エフライムを、ヤコブの左手の方向へと、向かわせようとしました、
 
 「その時」に聖霊が、ヤコブに対して働いたのです。もしヤコブの「思い(考え)」の中に、ヨセフの選択した「行動」を、人間的な「順位付け」として、適正と見なしていたのであれば、自分の右手を「マナセ(長男)」の頭の上に即置いて、神の「祝福」を順番通りに祈ったことでしょう。ところが、聖霊がヤコブに臨んだ結果、ヤコブの右手と左手がクロス(交差)し、右手をエフライムの頭の上に、左手をマナセの頭の上に、自然と置くという不思議な形式で、神の「祝福」の祈りが始まりました。
 
神の祝福の「順序」
 ご存知のように、父の「祝福」の権威は右手にあります。・・・・するとヨセフは、それを見て立腹しながら「お父さん、違うでしょ!私が、せっかくマナセを、お父さんの右手に導いたのですから、マナセから先に祈って下さい。」と、仕切りに懇願しました。そして思わず、父(ヤコブ)の右手を掴んで、エフライムから離そうとしました。ところが、老人の弱々しい右手だろうと思っていた、父の右手は一つも動きません!実に父なる神の為さることは、不思議です(人間の考えを超越しています)!一旦「事」を始めた以上、人間に神の働きを止めることが出来ないからです。
 
 すると父ヤコブは、息子ヨセフに対して優しく諭しました。「我が息子よ、あなたの言いたいことは、十分に分かっているよ。しかしこれは、主なる神が為さっていることだ!私には何も出来ないのだ。今から祝福を祈るから、あなたはそれを、素直に聞き留めていなさい!」と。
 
 私たち「人」の考える計画や願い、その根底にある次元は、アダム(エバ)の犯した「罪」の産物、即ち肉の次元です。そうです!私たちは、自分の肉なる「思い(考え)」を、常に優先させながら生きています。その結果私たちは、いつも次のように考えています。「先ず私が・・・・」、「私のものが一番・・・・」などと。しかし覚えて戴きたいことは、神の「祝福」を受け継ぐ順序というものは、私たち「人」の思い(考え)の中には、存在しないという点です。これは霊の次元に属することですから、私たちの肉の「思い」を遥かに優った、神の霊の次元の中で働くのです。
 
 神の「秩序」を、私たちが正しく見る「霊の眼」を、私たちが持っていなければ、私たちは必ず失敗します。前述したようにヤコブの傍らには、常に「杖」がありました。そして、父なる神の御前に出る時には、この「杖」を神の御前に置き、膝を屈めながら「主よ、私はいつも、あなたの前に頑なな者でした。あなたの支えが無ければ、ご覧のように立つことも出来ません。」と、霊的に悔いた砕かれた姿勢を貫きました。
 
 このように神の「秩序」は、人の「順序(順番)」「権威」「計画」などを、遥かに優った霊の次元の中で働きます!ヤコブの「人生」は、確かに彼の持つ「頑なさ」故に、苛酷な人生を体験しましたが、自分の人生最後の時に臨んで、彼は「言葉」を残すことで証明しました。「自分の肉に頼らず、神の与えて下さる杖(神の秩序)に支えて戴くことで、人生が神の祝福の内に全うされる!」と。その「言葉」の集大成が、祈りの手をクロスすることでした。
 
信仰による「礼拝」


信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。
                                                                                                           【ヘブル書11章21節】

 
 ヘブル書の著者は、明確に「神を礼拝することも、信仰が無ければならない!」と明言しています。「礼拝」とは、自分の人生の「歩み」の全てに渡って、何が自分を支配し、何が自分の生きる拠り所であるかを確認する、神との親しき「交わり」のことです。
 
 ヤコブは常に「主よ、あなたの恵み(杖)の支えが無ければ、私は立つことも歩くことも出来ない者です!あなたが私の肉の力を打ち、この杖をもって、霊によって生き始めることが出来たことを感謝します。」と告白し、礼拝を捧げ続けました。
 
 あなたが主イエス・キリストの十字架の、貴い血潮により聖められた者として、いつもあなたの右の手が、神を真心から礼拝できますように!あなたの中にある肉なる「思い」が、神の「御心」のみを、純粋に慕い求める霊の「思い」へと、聖霊様によって聖められますように!そして更に、あなたに働かれる聖霊様の御業が、主なる神ご自身を追い求める、あなたの霊的飢え渇きに、日々激しく臨みますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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