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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の時(No.11)

                 代弁(弁護)者を遣わされる




このことがニネベの王に伝えられると、王は玉座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。「・・・・人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかも知れない。」神は・・・・宣告した災いを下すのを止められた。
                                                                                                            【ヨナ書3章6~10節】


「人の時」を超えて働く「神の時」
 日本の「今の姿(現実)」は、肉の眼で見る限り、何の変化(良き兆し)が起きていないかのように見えても、霊の次元においては、大いなる神の取扱いが始まっています。しかしこの日本は、「何故?」という霊的疑問のみが付きまといます。他の国々においては、次々と聖書の預言通りに、聖霊様による大収穫が始まっているからです。「どうして私たちの日本には、未だリバイバルが起きないのですか?」などと、又この時のヨナの如くに、「とんでもありません、主よ。日本は巨大すぎます!」と、しり込みする弱き信仰者、これが私たちの現実です。


 今回のストーリーにおける第一の奥義、それは「神の時が始まると・・・・」という「神の事実」です。ニネベにも、遂に「神の時」が始まりました。ヨナが、たった一言「悔い改めよ!さもなくば滅びから免れません。今こそ、神の御救いを仰ぎ求めなさい!」と語り伝えただけです。


 「神の時」が始まりますと、「人の時」を超えた次元の中で、「神の事実」が進み行きます。「人の時」とは、例えばヨナが選択した、肉の行動の次元に存在します。ヨナは「残り二日間を終えてから・・・・」という発想で、「事(人の計画)」を進めました。つまり、彼自身が「三日間」やり通さなければ、「何」も起こらないだろう・・・・という考え方です。この「三日間」とか、残り「二日間」という考え方が、いわゆる「人の時」の次元です。


 ところが「神の時」の次元は、「始まりがあって終わりがある」という、神の「御心」から生まれ出るものです。ですから神の「終わり」とは、私たちの考えるような「終点」ではなく、「完成」から「完成」に至る、「神の事実」を現すものです。神の大いなる「ご計画」が始まると、それは「終わり」無き、神の素晴らしい御業が進んで行くのです!そしてそれは、誰も押しとどめることが出来ません。


 そして、神の大いなる臨在が現れ出ると、「人の時」の次元を超えて働き始めます。眠ることも無く、まどろむことの無い、父なる神の御業が始まると、「今日は〇〇曜日だったかな?」、或いは「今は何時?」などの次元を忘れる程に、神の素晴らしい「至聖所」の流れが進み行くのです。それが、本当のリバイバルの現象です。


 例えば「真の礼拝」とは、「人の時」の次元には無く、いつでも、どこでも、「神の時」に応じて、聖霊様の支配する霊的次元の中で、永遠に続くものです。それ故に、私たちは「神の時」を待ち望み、「その時」に備えるのです。人間的な「計算(計画)」を放棄し、主なる神が「いつ」自分を用いてもよいように、神の「畑」の肥やしづくりを始めましょう。


「代弁者」が遣わされると・・・・
 さてヨナが寝ている時、ニネベに一体「何」が起きたのでしょうか?その夜、神の「霊」が天より降り、ニネベの王に激しく臨みました。そして、昼間に聞いたヨナのメッセージが、燃え盛る「炎」の如くに、王の「霊」を燃え立たせ、次のような「思い(悔い改め)」へと導かれました。「真の神の御救いを、今求めなければ、この私もニネベの住民の全てが、たちどころに滅ぼされる!」と。


 しばらくの間、王は深く塞ぎ込んでいましたが、急に「天」よりの幻が与えられました。それは、ソドムとゴモラの滅亡を、遥かに越える「大破壊のシーン」でした。その瞬間に、王は物凄い恐怖に駆られましたが、それと同時に聖霊様を通して、「真の神である、主なる神のみを畏れ敬いなさい!」という語りかけを聞きました。聖霊様は続けます。「あなた方の信じている神々は、ただの偶像です。ニネベを滅亡から救いたいのであれば、王よ!あなた自身が先ず、真の主なる神の御前にて、悔い改めの祈りを捧げ、この大いなる神のメッセージを、ニネベの全住民に宣べ伝えなさい!」と。


 それから王は、ヨナがぐっすり眠りに入っている真夜中頃、宮殿から全ての役人たちに命じて、「王令(勅令)」を宣言しました。「皆の者、聞くがよい。お前たちは信じないかも知れないが、今まで信じていた偽りの神々ではなく、真の神、唯一の神、主なる神のみを信じ、真の神の御救いを、直ちに求めるがよい。さもなくば、この町は数日の内に滅び去るであろう。これは王自らが、お前たちに命じる勅令である!従わない者は死罪を命じる。」と。


 この「勅令」を発した王こそが、実はヨナの「二日目」と「三日目」の働きに代わって為した者、即ち代弁者(弁護者)だったのです。王が、神の「ご命令」を語った瞬間に、全ての高官(役人)たちに「悔い改め」の思いが注がれ、王と同様の行動を採りました。それを確認し終えた王は、続いて彼らに対して「この勅令を、町の全住民に知らしめるべく、町の隅々に至るまで伝達せよ!」と命じました。


 この後に起きる、驚くべきシーンを覚えて下さい!ニネベの役人から軍人(兵士)に至るまで、彼らが神の「メッセンジャー(使徒)」として用いられたのです。しかも彼らの「恰好(有様)」は、今まで威張っていた役人としての「衣(権威の装束)」から、ただの浮浪者の如き有様です。最初、ニネベの住民は彼らの有様を見て、恐らく躊躇して王の「勅令」を信じようとはしなかったでしょう。しかし、彼らに働く聖霊の言葉が、彼らの「霊」を、真実の「悔い改め」へと導いたのです。


ただ聖霊によって
 さてこの時、ヨナは「何」をしていたのでしょうか?彼は宿舎で、第一日目の宣教活動の疲れから、ぐっすりと眠っていました。夜中に起きた、ニネベの「リバイバル」シーンを、全く見ることなく・・・・。即ち、彼の「二日目」の予定(計画)を、完全に打ち消しにする、神の「出来事(事実)」が先行したのです。


 神が為される「大収穫」の時には、「私(個人)」や「大先生」ではなく、名も無き「多くの民」を神は用います!彼らは神の「御心」を、へり下って求める「器」の集団であり、「自分」の願い(欲)からではなく、「聖霊」のみを求めることを、最優先に考える人々です。「私」が動くことは、三次元的な肉の業です。しかしパウロが明言するように、その「あなた(私)」が、イエス・キリストと共に死すことで、神の大いなる「働き」が、死んだ「あなた(私)」に始まるのです!


 「その時」には、主なる神が「あなた」に代わって、必ず「代弁者(聖霊様)」を遣わして下さいます。そうです!聖霊様こそが、父なる神の「御心」を現す唯一の方、また唯一の方法です。「私の方法」や「私の祈り」などによるのではなく、ただ聖霊様を通して、「イエス・キリスト」の御名が高められるためです。


イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「・・・・イスラエルの失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」
                                                                                                 【マタイ福音書10章5~8節】


 この御言葉の中で「死者を生き返らせ」という神の働きに関して、私たちは余り気にもしませんでした。しかし覚えて下さい!この日本のリバイバルのためにも、タンザニアで起きている、同じ奇跡(死人が甦る奇跡)が必要です!「神の国」の到来が始まる時には、人間的な「権勢」によらず、特別な人の「能力(タラント)」にもよらず、ただ主なる神が遣わして下さる、代弁(弁護)者「聖霊様」を通して、神の「事実」が現れ出るのです!


 ですから私たちは、「自分」のためではなく、主なる神の「御心」を、更にへり下って求め、聖霊様が与えて下さる、「上(天)」よりの力を受けることで、「私(あなた)」は初めて、イエス・キリストと共に十字架に付けられた、麗しいキリストの花嫁として、霊的に仕立てられて行くのです!


 代弁者なる聖霊様が与えて下さる、明確な「指示(導き)」に従う時、私たちは大胆な信仰もって、ただ宣言するだけでよいのです。「何」も計画する必要はありません。そうです!私たちは、ただ主イエス・キリストの「御名」によって、「病よ、立ち去れ!」、「死者よ、生き返りなさい!」、「神の国よ、直ちに現れ出よ!」などと、ストレートに告白(宣言)するだけでよいのです。代弁者なる方が、後の事を全て相働かせて、益として下さいます。それ故私たちは、「二日目」や「三日目」のことを、人間的に考える必要もありません。


 イエス・キリストの豊かな「臨在」が、代弁者なる聖霊様の「働き」を通して、益々主なる神の「御心」を、へり下って求める「あなた」の信仰に、満ち溢れるばかりに現れ出ることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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