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命と心の健やかなる成長のために!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

全き信仰(No.6)

                     神の幕屋に住み続ける
 



アブラムは、・・・・天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。
                                                                                                 【創世記12章8節,13章18節】
 
 私たちの信仰の「ベース(基盤)」
 ご存知のようにアブラハムの信仰は、「信仰の父」と呼ばれる程に、その歩みが真摯であると同時に、非常に偉大であるが故に、私たちは大いに励まされるところがあります。信仰の創始者であり、完成者である主イエス・キリストは、私たちの「歩み」の全てをご存知です。それ故、私たちの「信仰」が完成される時、私たちが「何処」に住んでいるかが重要となります。
 
 私たち日本人は、目に見える事実としては、いずれ近い内に起きるであろう、巨大地震などの災害に怯えながら、いつかは崩壊するかも知れない、住居(住みか)の中で暮らしています。しかし私たちキリスト者は、目に見えざる事実を求める信仰、即ち主なる神が私たちの「住みか」を、天にある霊の次元の中において用意して下さることを、聖霊を通して堅く信じているのです!
 
 もし、私たちが三次元的事実にのみ、心を奪われるのであれば、私たちは目に見える事実にのみ、即ち「建物」に対する耐震補強などに、様々な労苦を費やすことでしょう。しかし、それも限度(限界)があります。


「天幕」を住みかとする
 アブラハムの「信仰」のベースとなる生き方、それが「天幕」を住みかとした点にあります。「天幕」とは、文字通り「テント」のことですから、非常に簡易な住みかです。ここから私たちが、霊的に学ぶべき第一の奥義、それは目に見える事実に頼る生き方の、霊的特徴を正しく知ることです。
 
 私たちが三次元的事実にのみ、心を奪われてしまいますと、それは限り無き「技術」の革新が求められます。つまり「完成」が無いまま、例えば➀補強→②免震→③制震というステップで、巨大地震から生き残ろうという発想をしますが、それでも「安心(満足)」には至りません。彼らは、この大地が真の創造主によって、いずれは完全に滅ぼされることを知りません。
 
 覚え戴きたい、アブラハムの「住みか」に関する事実、それは元来アブラハムが、「天幕」のみを住居とした訳では無かったという点です。彼は、ウル(生まれ故郷)の地においては、恐らく父(テラ)から、いずれ譲り受けるであろう、「大豪邸(屋敷)」に住んでいたことでしょう。ところがある時、主なる神がアブラハムを召し出し、「父の家」を出るように命じられたのです。ところが、彼が持参することを許された財産、それは「天幕」と家畜だけでした。
 
 では「天幕」とは、三次元(物理)的に見て、果たして強固なものと言えるでしょうか?その答えは明瞭です。「弱い!」の一言に尽きます。これが私たちが学ぶべき、第二の奥義です。私たち日本人は、今日「平和な時代」に生きていますから、余り分からないかも知れませんが、「天幕」は物理的にも弱い、住居としての構造ですから、当然「敵」などの部族(他民族)からの、攻撃に耐え得るものではありません。テントは、まさしく弱点だらけの住みかです!「強い!」と言えるものが一つも無いのです。目に見える事実としては、「弱さ」のみが映し出されるもの、それが「天幕」です。
 
 しかし、一つだけ「強み」となるものが、目に見えざる事実として隠れています。例えば、仮に主なる神があなたに対して、次のような「命令」を下された場合、あなたは如何なる「返答」をし、その後如何なる「行動」に移るのでしょうか?「あなたは、様々な私の取扱い(訓練)を受けて、もう十分に練り聖められた。それ故もう、あなたが住んでいる家屋(住居)は必要無い!ここを出て、あなたが嫌っている貧しい隣国へと、テントを持参して出立しなさい!」と。
 
 すると、私たちの殆どが「え!ここを放棄しろですって?」、「とんでもありません、主よ!まだこの地に、私たちの宣教の使命が残っていますから(それだけは・・・・)」、「ちょっと待って下さい。心が定まりませんから、保留にしておいて下さい!」などと、アブラハムのようにストレートに、「ウル」を捨てることが出来ないと思われますが、あなたの場合は如何でしょうか?
 
 さて、「天幕」の強みとは何でしょうか?それは即座に移動するのに、もってこいの「住みか」であるという点です。つまり建てたものを、すぐに分解し、別の地に移動しても、即座に建て直すことの出来る構造である!という点です。


アブラハムの求めた神の「幕屋(天幕)」 
 では、アブラハムにとっての「住みか」とは、一体どのようなものを理想として、熱心に探り求めていたのでしょうか?「信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。」(ヘブル書11章9~10節)


 この御言葉からわかる真理は、アブラハムが地上の住みかを待望していたのではなく、常に天の住みか、即ち自分のために将来用意されているもの、しかも神が堅固な土台として据えて下さっている、イエス・キリストを土台とする天国のマンションを、ひたすら待望していたという点です。ですから彼にとっての「天幕」は、あくまで地上の「仮庵(地上の宿)」ですから、その「先」にある永遠の都に向けて、黙々と移動していたのではないでしょうか!
 
 最後に学ぶべき奥義、これはアブラハム、イサク、ヤコブの三者に共通する特徴ですが、それは「何」をベースとして移動したのか?という点にあります。とりわけ「信仰の父」と呼ばれたアブラハムの、基本的な信仰の行動において必ず為した、その最大の特徴に見られるものです。
 
 それは移動する度に、何よりも先ず➀「祭壇」を築き、その後に②「井戸」を掘ったという、実に不思議な行動です。つまり彼にとっては、「天幕(地上の住みか)」を建てるよりも、「祭壇(神との交わりの住みか)」を築くことが重要でした。「祭壇」とは、目に見えざる「神の宮(至聖所)」のことです!
 
 あなたは、イエス・キリストを堅固な土台とする、目に見えざる「神の宮」を、自分の「霊」の只中に確立していますか?聖霊様は「神の宮」こそが、私たちの行く(移動する)先々において、先ず確立すべきものである!と、強く私たちの信仰に働きかけています。私たちが、「イエス・キリスト」という土台を、先ず「祈り」をもって確立し始めることが重要です。私たちの「祈り」の祭壇を、先ず築くことで初めて、主なる神に対する「感謝」と「賛美」の生贄を、霊的に捧げることが可能になるからです。
 
 あなたは、霊的に移動し易い備えを、日々していらっしゃいますか?今後起きるであろう霊的大収穫(リバイバル)の時に、「この世」のことに後ろ髪を引かれる部分がある(残っている)としたら、あなたの三次元的な信仰に対して、聖霊様が悲しむことになります。それ故、あなたは三次元的な事実に、絶対頼らないで下さい!移動し易い神の「幕屋」に住み続けることを、更に求めて参りましょう!そうすれば、神の「祝福」が後を追いかけて来るという、アブラハム同様の全き信仰の歩みが、あなたにも確立されるのです。
 
 あなたが常に「神の宮」に留まり、かつ住み続けながら、神の「命の言葉」を、絶えず求めることが出来ますように。そして主イエス・キリストとの「親しい交わり」が、あなたの日々の信仰の歩みにおいて、聖霊の働きを通して更に深められることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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