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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の時(No.1)

     あなたは何処に逃げようとするのですか?




主の言葉が・・・・ヨナに臨んだ。「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪は私の前に届いている。」しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折りよくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。
                                                                                                              【ヨナ書1章1~3節】


「神の時」を正しく知る
 ヨナとは、如何なる人物だったのでしょうか?私には、何となくザアカイの如くに、小心者のイメージが浮かび上がって来ます。ところが実際の彼は、決して不信仰で、弱々しい人物ではありません。列王記に記述されている通り、彼はイスラエルの民を、神の御心に適った「正しい道」に導くために、選び召し出され油注がれた預言者という、力ある霊的リーダーの一人でした。ですから、実際の彼は信仰に満ち溢れ、そして神の霊的訓練を受けた、熟練した神の下僕であります。


 私たちは「人の時」を、あれこれと推し量ることを得意とします。しかし、私たちキリスト者の場合は、全ての「時」を肉の業で、様々に完成させていくことよりも、「神の時」として謙虚に受け留め、父なる神の「御心」に素直に従うことの方が重要です。この場合の「従う」とは、ルールを必ず遵守するなどを意味する言葉ではありません。


 ご存知のように私たちには、ヨナ同様に霊的に弱い部分が、「罪」故に多くの残っています。例えば、どうしても「神の時」を正しく見図れなかったり、仮に「神の時」が来ても、それが何を意味しているのかを、正しく理解できないなど・・・・。実はその「弱さ」が、今回のヨナの場合に起きたように、私たちは「神の時」が来ても、それを素直に受け留められないのではないでしょうか。


 偉大な「神の人」であるヨナでさえ、事実としては「神の時」から、この時は逃げたのです!ましてや私たちの場合、神から一方的な「ご命令」が臨んだ時に、それを聞き逃すことの方が殆どですが、ヨナ以上に人間的な「恐れ」に満たされ、躊躇するどころか、直ちに逃げ去っていることでしょう。これは、生まれつき私たちが持つ、アダム(エバ)の犯した「罪」によるものです。


 しかし私たちが、今回の僅か三節程度の御言葉の中に秘められた、父なる神の「御心」と、私たちに対する大いなる「取扱い」の奥義を知る(学ぶ)時に、私たちの「時」に対する弱さの全てを、父なる神は前もって思い慮りながら、様々に取扱われるという「神の時」を、新たに受け留められるようになるのです!


神の「命の言葉」が臨む時
 先ず第一に、私たちが学ばなければならない、「神の時」に関する奥義は、主なる神の「命の言葉」が臨む時の反応(態度、姿勢、行動)です。これはヨナばかりに、起きることでは決してありません。実は私たちにも、様々な形態をもって一方的に、神の言葉が臨む時があるのです!これは双方向で交わす、例えば神との「親しい交わり」からもたらされる場合の、主なる神の「言葉」とは違います。


 一方的に臨む神の「命の言葉」の場合、それは大抵「非常ボタン(SOS)」の如き、緊急的な呼び出し(コール)を意味します。それに対する私たちの第一の反応は、殆どの場合が「え!?私が呼ばれること自体、意味が分らない・・・・」などと躊躇します。第二の反応は、少年サムエルがエリ先生の指示通りに、緊急コールを神の大事な「お言葉」として捉え(素直に受け留め)、それに対処すべく、神が続いて語られる「命の言葉」を、謙虚に待ち続ける姿勢です。


 第三の反応、これが今回私たちが学ぶべき、ヨナ(私たちも含む)の霊的「弱さ」から生じる反応です。即ち、神の「言葉」そのものから逃げる、或いは隠れる(無視する)ことです。これは主なる「神の御心」とは、別の道に行こうとしたり、別の方法を探るべく様々に思案する態度のことです。


如何なるルートを選択すべきか?
 私たちが学ぶべき、「神の時」に関する奥義の第二のポイント、それはヨナが「その時」に選択した「道」が、如何なるルートであったのか?という点です。私たちが霊的に体験する、様々な神の取扱い(導き)には、必ず神の「正しい道」が、真っ直ぐなものとして用意されています。ところが、その「神の道」が見えなくなった時、私たちは自分(己)の道、自分の計画、自分の方法などを、安定的な土台として据えることで、先(将来の進路)のことを、様々に模索し(案じ)たり、自分の道を完成するなどの霊的弱さがあります。


 ヨナは「その時」、「主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった」のです。つまり彼は、主の「ご命令」そのものから逃げました。ここで覚えて戴きたいことは、彼は決して主なる神から逃げた訳ではない!ことです。即ち彼は、主なる神の「ご命令」を、自分の判断の中に隠しただけです。何故なら、彼がその後に選択したルートが、「ニネベ」の方向(東方)ではなく、「タルシシュ」という、別の方向(ニネベとは逆の方向)を、あえて選択したことにあるからです。


 主なる神がヨナに命じられたことは、「とにかくニネベに行きなさい!どんな方法を使っても良いから、ニネベに出かける準備をしなさい!」という内容のものでした。決して「直ちにニネベに出かけよ!さもなくば・・・・」と命じられた訳ではありません。しかしヨナは、神の「ご命令」に対して、即自分の判断から「あー、もうこれだけは駄目だ!私はイスラエルの民に対しては、何らかの預言的警告を、大胆に告げ知らせることが出来るが、あの巨大都市ニネベの住民に対しては、とてもじゃないが無理だ!」という、人間的恐れを取り込みました。


 そして彼が、すぐさまに移った行動が、主の「ご命令」を無視し、行く先(ニネベ)を聞かなかったふりを装い、一応旅立ちの準備をして「港」に向かったことです。彼は「港」に到着するや否や、ちょうど折りよく「タルシシュ」行きの船が停泊していたので、直ちにその船に乗船しました。つまり彼は、「おー、これこそが神の御心通りの船だ!必ずタルシシュに向かって、その後に、ニネベ行きの船に、いつかは乗れるだろう。」などと、別のルートを「その時」描き、実際に選択したのです。


 実は彼の選択したルート、つまり神が定めた目的地を、「ニネベ」から「タルシシュ」に刷り返ることで、神の「ご命令」から逃れられると思う行為は、私たちの信仰の歩みの中にも、常に存在するものです。主なる神が、例えば「静まって、私の時を待ちなさい!」と命じられた場合、私たちは「それは、いつですか?」などと躊躇し、中々行動に移る(実行する、従う)ことをしません。しかし、主なる神が命じられた以上、私たちは「静まって神の時を待つ」ための、霊的準備に移ることが要求されるのです。


霊的に「逃げる」べきフィールド
 ヨナは何故、「ニネベ」に行くことを恐れたのでしょうか?彼はイスラエルの敵国、アッシリヤの巨大都市の一つ「ニネベ」において、物凄い悪しき霊的暗闇の力が、ニネベの住民ばかりか、奴隷などの他民族の人々をも、宗教的に束縛しているという「事実」を知っていました。それ故に、彼にとっての「ニネベ」は、到底太刀打ちできない不可能なフィールドに見え、かつ非常に恐れていたため、「自分」が遣わされたところで、逮捕され奴隷となるか、いずれ処刑されるなどの、否定的な自己像を描きました。


 「タルシシュ」行きの船に乗船した後、続いてヨナは第二の「逃げる」行動に移っています。新共同訳聖書英語版では、次のように記述されています。「He paid his fare and went aboard with the crew to sail to Spain, where he would be away from the Lord.」即ち、彼は堂々と「乗船客」として、タルシシュまでの船旅を過ごせばよいところを、何と彼はクルー(船員)に紛れて、船員たちと共に過ごすことで、主なる神から身を隠したのです。


 この彼の行為は、何となく「自分」の存在そのものを、主なる神の「御目」から隠している行動に見えます。まさしく「罪」を犯した直後の、アダム(エバ)の行動と同様のものです。実は、聖霊様も常に私たちに対して、次のように促しておられます。「あたなは主なる神の御目から、霊的に逃れようとしていませんか?あなたは常に、主なる神の御心のみを求めて、神の御前に出ていますか?主なる神はあなたのことを、熱情の愛をもって見守り、そして忍耐強く待っておられるのですよ。それ故あなたは、今の状態から直ちに悔い改めて、少年サムエルの如くに、神の御言葉を待ち望みなさい!」と。


 ところが私たちの霊的反応としては、この時のヨナの如くに、神の「言葉」をストレートに受け留めるのではなく、様々に自分の「屁理屈」や「難癖」、そして「不平」と「言い訳」を述べるなどして、神の御元に行こうとはしない、「罪」があるのではないでしょうか?これを悪い意味で、霊的に「隠れる(逃げる)」と言います。覚えて戴きたい神の「事実」は、主なる神は如何なる場合(状況)においても、「あなた(私)」を導き見守る方であり、主なる神の臨在の中に、あなたが聞き従う時に、神の「御心」を現す者として祝福される!この「事実」を私たちが信仰をもって、謙虚に受け留めるべきです!


 私たちの「思い」の中には、常に「可能」か「不可能」かという、二者択一の概念が付きまとっています。例えば「自分が・・・・できる!」という一つのプライド(自信)と、「いや無理である!」という劣等意識(逃避)など。実は、この二つの「思い」の領域の中に、主なる神が取扱われるべく、大いに臨まれる緊急コールがあります。これは、全てのキリスト者に共通するものです。そのコールとは、「全てを神の御前に捧げ尽くしなさい!あなたの時、あなたの計画、あなたの思い煩いなど、それら全てを神の御前に携え行き、先ずあなたと神との関係が、麗しいものとして修正されるべく、聖霊様の取扱いを求めて従って行きなさい!」という「ご命令」です。


 私たちが本来、霊的に正しく「逃げる」べきフィールド、それはイエス・キリストの「十字架」の御元です!私たちは「できない自分」でよいのです。元々できない存在だからです。そうです!父なる神の「御心」があって初めて、私たちは存在し得るのです。聖霊様の常なる「働き(取扱い)」があってこそ、私たちは生かされているのです!また、イエス・キリストの流された貴い「血潮」と、その裂かれた「み体」の贖いの恵みの故に、私たちは父なる神の御前で、常に受け入れられる「聖なる器」なのです!


 主なる神は「自分には無理です(できません)!」などと、霊的にへり下る者に対して、大いなる緊急コールを発信され、聖霊様による取扱いを始められるのです。ヨナは確かにこの時、「タルシシュ」行きの船の中を逃げ隠れしましたが、そこに父なる神の、大いなる霊的「取扱い」が、実はこの後に続いて為されるのです。


 神の緊急コールが為される(臨まれる)時、あなたが何処にも逃げ隠れすることが無いように、直ちに主なる神の御元へと立ち返り、イエス・キリストの御声に素直に聞き従うことの出来る、聖なる器として仕立てられることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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