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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.40)

            イエス・キリストの存在証明




イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、私は上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、私はこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪の内に死ぬことになると、私は言ったのである。『私はある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪の内に死ぬことになる。」彼らが、「あなたは、一体、どなたですか」と言うと、・・・・イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『私はある』ということ、また、私が、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられた通りに話していることが分かるだろう。私をお遣わしになった方は、私と共に居て下さる。私を一人にしておかれない。私は、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」これらのことを語られた時、多くの人々がイエスを信じた。
                                                                                               【ヨハネ福音書8章23~30節】


イエス・キリストの「存在証明」の主眼
 「存在」という言葉は、生きていることを意味する言葉ですが、その人の持つ「身分(家柄)」や、「働き(仕事、会社の所属)」などを証明する言葉でもあります。今回イエス・キリストは、まるで法廷における「証言(供述)」を語るかの如くに、ご自身の「存在証明」を説明していますが、言葉の内容を理解するのに非常に難しい表現が、かなり見受けられます。特に24節に記述されている、「私はある」の表現は、詳細に訳した場合「私は生きている(実在している)。それ故に、そのことが私を証明している。」となりますが、それでも言葉の持つ「真意(内容)」が見えて来ません。


 自分の「存在」を証明するのに、一番最初に表明する場合、私たちは「名前(姓名)」を述べるはずです。ところがイエス・キリストの場合、父なる神がモーセに語った如くに、「私は在りて在る者」としか語られませんでした。旧約聖書においてイスラエルの人々は、父なる神の「存在」を表現する際、具体的な名前を「ヤーウエ」と呼びましたが、これはヘブル語の頭文字を組み合わせた発音に過ぎません。


 覚えて戴きたいことは、イエス・キリストは、ご自身を純粋に慕い求める人々に対して、常にご自身が如何なる者であり、父なる神との関わり方において、父なる神がご自分のことを如何に愛し、また認めて下さり、「救い」のご計画を託しておられるか?つまり「父」を紹介することに、力点を置いていました。即ち、イエス・キリストの「説明(証言)」の主眼は、「父」の存在を証言することで初めて、「子(自分)」の存在が立証される!という、単純な弁術を展開することでした。そして何と、私たちも理解しにくい、イエス・キリストのこの「証言(弁論)」を聞いた結果、多くの人々がイエス・キリストの「存在」を信じた!と、弟子ヨハネは30節において記述しています。


三つの重要な「テーマ」
 もし仮に、多くの人々があなたに対して、次のように尋問したとしたら、あなたは如何なる「証言(弁術)」を述べるでしょうか?「あなたの信じる神は、一体何処におられるのか?」、「あなたはその神を信じて、一体これからどうなるのか?」など。そのように尋ねて来る人々の殆どが、「わしらは、やはり(目に)見える神様がほしいからなー!言葉だけでなく、実際にご利益を下さるという、事実がほしいから・・・・。目に見えない神なぞ、とても信じられん!」などの自分流の主張(弁術)に、確信を抱いているからです。


 イエス・キリストが、ご自分の「存在証明」として供述した、今回の御言葉には、三つの重要な「テーマ(論点となる証言)」があります。先ず第一の「証言」として、イエス・キリストは「あなたたちは下(世)のものに属しているが、私は上(天)のものに属している。」(23節)と述べられました。この世の裁判においても、実は同様の証言が展開されます。それは被告の「立証」として、最初に供述することですが、その人の「名前」から、「身分」や「出身」などを表す、つまり「所属(帰属概念)」を証言します。


 イエス・キリストが述べられた、この第一の証言は、要するに「私は〇〇家の長子として生まれ、父の名前は・・・・である!」と、本来はストレートに表現するところを、あえて「下(世)」と「上(天)」という、相対する霊的出身地を、彼らに対して表明した訳です。何故なら、彼らはイエス・キリストのことを、「ただのナザレ人(田舎者)」、或いは「偽りの教師(ペテン師)」としか見ていなかったからです。私たちも「この世」の人々から、次のように問われる場合があるかも知れません。「あなたの信じる神は、一体何処の誰ですか?私たちは、名門の〇〇宗▲▲派の門徒です・・・・。」などと。


 第一の「証言」を、全く理解しようともしない彼らに対して、イエス・キリストは続いて、第二の証言を述べました。「『私はある』ということ」(24節)と。西欧近代哲学者の一人である、デカルトが「我思う故に我在り。」という、有名な哲学概念を述べましたが、まさしくデカルトのこの言葉は、イエス・キリストの第二の証言から生み出された、「存在証明」に他なりません。単純な理屈かも知れませんが、その人が生きているか否かを立証するには、その人が存在していることを、事実として証明するしかありません。


 当時のイスラエルの人々は、全能の「主なる神」が、何となくいらっしゃることだけは理解していました。しかし「生きて働き、自分の人生(生活全般)に、リアルな関わり方を為される方である!」ということを、実際に証明することの出来る者は、一人もいませんでした。彼らが口に出して言えることは、「私は~の戒律(律法)を守っているから、多分天国に行けると思いますよ。」などの、あやふやな「言い回し」のみ。しかしイエス・キリストの場合は、「いや違う!私は、実際に生きて働く真の神、父なる神の御子である。私を信じる者は、必ず父なる神をも知ることになる!」という、確固たる上(天国)からの「証明」をもって、下(世)においてあやふやに生きる彼らに対して断言したのです。


 私たちは、現実に起きている様々な「苦しみ」や「悲しみ」、また「問題(困難)」など、私たちが太刀打ちできないような、巨大な壁(試練)に遭遇した時に、自分という「存在」が、如何に愚かで罪深き弱い存在であるかを、初めて知ることになります。つまり本当の自分の姿を、鏡を見るかの如くに知らされるのです。それと同様に、私たちが巨大な壁を前にした時に、イエス・キリストは私たちに対して強く言われます。「巨大な壁を見るのではなく、あなたの行く道のりの先(前)々に、私という存在を置きなさい!そうすれば、あなたの問題の全ては、父なる神のご計画の中で、完全に上に挙げられ(贖われ)、既に解決されるのです!」と。


 私たちはイエス・キリストの、このシンプルなメッセージを聞いて、頭(三次元)では理解できるのですが、実際に目の前に大いなる問題が生じた時に、すぐに自分の殻に閉じこもってしまい、「あーもう駄目だ!これ以上は進めない。」などと、否定的概念に縛られてしまうことが、多々あるのではないでしょうか。しかし覚えて下さい。イエス・キリストは、それでも私たちに強く促されます。私たちが「思い」の面において、また信仰の「歩み」や、霊的な「闘い」の面においても、イエス・キリストが「私は在りて在る者」、即ち「生きて働く真の神である!」ことを、私たちが信仰をもって告白しつつ、イエス・キリストの「救い」の御業を通して、私たちの「重荷」を引き上げて(贖い出して)戴くように!と。


 是非あなたは信仰をもって、十字架のイエス・キリストを、いつも霊的にイメージして下さい。そうです!あなたの「重荷」の全ては、十字架上で貴い「命」を捧げられた、イエス・キリスト(子羊)の「生贄」によって、既に挙げられ(完済され)ている!こと、これを忘れないで下さい。父なる神は、「イエス・キリストの十字架」という言葉に対して、非常に「(良い意味での)弱さ」を覚えられます。何故なら父なる神は、御子(たった一人の皇太子)の「命」を、十字架上で犠牲にする程に、私たちのことを命を懸けて愛し、私たちの全ての重荷を解決(解放)したからです。


 第三の証言として、イエス・キリストは「人の子を上げたとき」(28節)と述べました。つまり、父なる神が時至りて、「ご自分を再び御元へ引き上げられる(御国に帰る)」ことで、ご自分の「存在(身分)」が、紛れも無い「事実」であることを、前もって立証されたのです。即ち、父の御元に帰り、自分の「存在」の全てが父から発生し、今日に至っている理由の最大の「根拠(証拠)」が、他人は決して知ることの無い、父の「存在(素性や身分、本人の持つ考え方など)」を、自分だけが知っているという、紛れも無い神の「事実」に、一つ一つ照らし合わせた観点に立って、堂々と証言することで立証したのです。その結果、それまでは懐疑的であった、当時のイスラエルの人々の中にも、イエス・キリストのこの「証言」が、まさしく「事実」であり、イエス・キリストが、偽り無き「真の預言者である!」と、この時に信じる者が出始めたのです。


 ですから私たちは、イエス・キリストのことを、この世の人々から尋ねられた時にも、「確かに私は、〇〇家の長子として、この世に生を受けました。しかし私の信じる真の神は、この私を本来の正しい身分に連れ戻すべく、西暦●●●●年△月▲日に、イエス・キリストの十字架の贖いの御業によって、私は完全にこの世から救い出されました。そして、私が救われたその時から、父なる神が常に私と共におられます。またイエス・キリストは、私の全てをご存知であり、私はイエス・キリストを愛して止まない!と思う程に、喜びに満たされながら生きています。何よりも素晴らしいことは、イエス・キリストは、私が心配する以前より、全ての問題(壁)を打ち破り、私が安心して歩むことが出来るようにと、絶えずねんごろに見守り続けて下さいます。この世の人々は、ある時には自分から去り、離れることがあるなど、悲しみと失望を与えることでしょう。しかしイエス・キリストの場合、彼は決して見放すことも、孤児とすることも無く、私のことを愛し導いて下さる方です!」など、自分の真(本来)の「存在(身分)」を、イエス・キリストの「家族」に連なる者として、大胆に立証して下さい!


 私たちが、「イエス・キリスト」を信じるということは、父なる神の「愛」に触れることでもあります!私たちが、主なる神の「愛」を知れば知る程、父が「在りてある神(創造主)」であることを、私たちは霊的に体験(知る)していくのです。それ故私たちも、常に「父」の御元に帰りましょう!そして御子イエス・キリストに対して、次のように告白しましょう。「父の愛を、もっと私の中に満たして下さい!父の愛が、イエス様の救いの御業によって完成され、全ての中に勝利できますように。今起きている問題の全てが、イエスの贖いの御業によって打ち壊され、イエスの御手をもって平らにされますように。私は今、あなたの御名で信じます。」と。


 あなたの「全て」の中に、イエス・キリストとの麗しい「交わり」の恵みと、父なる神の永遠に変わらぬ「愛」が、豊かに増し加えられますよう、聖霊様の「御助け」を信じつつ、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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