バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

復活の福音(No.14)

                                贖いの代価



人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。
                                                                                                     【マルコ福音書10章45節】


「無代価」の価値(意味)
 ご存知のように、私たちがイエス・キリストを、「救い主」と信じる信仰の原点、それは全てイエス・キリストの「復活」にあります。復活の「力」が、何よりも麗しい神の力として、私たちの「人生」や「生活」など、それら全般に渡って豊かに流れ、この神の「恵み」が余すこと無く、「全地」に満ちているのです。


 そして私たちが、イエス・キリストの流された貴い「血潮」を、無代価で受け取り飲み干す時に、私たちの如き霊的に愚かで、「罪」深き身であったとしても、父なる神は私たちのことを、全く汚れの無い、しみも傷も無い、麗しい子羊として受け留めて下さいます!


 私たちは、この揺るぎ無き神の「救い」という事実を、いつも覚えておくべきです。神による復活の「恵み」には、確かに「癒し」や、様々な「奇跡」を伴うこともありますが、一番重要なことは、私たちがイエス・キリストを、「救い主」として信じることにより、無代価で買い取られている!ということです。


 仮に私たちが、今まで犯してきた様々な、「罪」の負債(借金)を見積もるとしたら、それはとても算出できる額には無い程のもの、つまり負いきれることの出来ない、「価」になるのではないでしょうか。しかしイエス・キリストの、たった一度の十字架上の「贖いの死」により、私たちの「罪」の全てが、棒引き(帳消し)にされるという、私たちには考えられない、神の「救い」の恵みを、私たちは既に受けているのです。


霊的「身代金」の目的
 今回の御言葉に記述されているように、私たちの主イエス・キリストが、「この世」に遣わされた目的、それは一言で明言するならば死ぬため、つまりご自身の「命」を捧げるためです。しかもイエス・キリストの「死」は、唯一の方向性を持ち併せています。それは多くの人の「身代金」という方向性です。新改訳では、この部分を「贖いの代価」という表現を用いています。つまり、私たちの「罪」の全てを帳消しにすることの出来る、霊的な「代金(代価)」のことです。


 旧約において為される、「罪」の負債を贖う方法には、幾通りの規定があり、そのプロセスには、多額の支払いが要求されます。しかし、この古い契約(旧約)に基づく「贖い」の方法では、神の完全なる「救い」には至りません。それ故イエス・キリストが、「この世」に遣わされた目的が、古い契約によって完成するのではなく、新しい契約によって成就(完成)するためでした。


 「身代金」とは、人質を贖う(救い出す、買い取る)時に用いられる言葉です。と言うことは、父なる神が御子(イエス・キリスト)を、「この世」に遣わす時の心境(心情)、それは家長が強盗の巣の中に、「長子(跡取り)」を人質として差し出す時と同様のものです。しかも、この時の「人質」の使用目的が、強盗たち(私たち罪人のこと)の犯す、犯罪という霊的負債の「全て」を、完全に帳消しにするという、とんでもない目的のためです。


 このように考察してみますと、借金(罪の負債)の「保証(担保)」として、質に入れられた方が、イエス・キリスト(唯一の子羊)であります。そしてイエス・キリストは、今も尚生きて働かれ、私たちの犯す日々の霊的「借金(罪)」の全てを、支払い続けて下さっているのです。


 このように「人」の理屈を超えた、父なる神の「贖い」の方法は、単純に説明しますと「不義の無い、純潔の子羊の証文(保証書)がある限り、私たちは永遠に贖われ続けるという、神からの特権にあずかっている!そして父なる神は更に、私たちが子羊(イエス・キリスト)の証文を信じることで、ご自身の愛を与えたい(注ぎたい)!と望んでおられる」ことです。そうです!私たちの「復活」の希望の源、即ちイエス・キリストは、常に私たちのために、「復活」という不滅の命を現して下さり、私たちが「借金(罪)」に追われる生活ではなく、霊的に麗しい豊かな「復活の命(人生)」を、その都度与えて下さいます。


買い戻されている!という事実


主は再び、私に言われた。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主が尚彼らを愛されるように。」そこで、私は銀15シェケルと、大麦1ホメルと1テレクを払って、その女を買い取った。
                                                                                                          【ホセア書3章1~2節】


 実はホセアの人生ストーリーの中に、父なる神の「贖い」の御業が、豊かに描かれています。彼は主なる神のご命令により、遊女ゴメルを妻に迎え、三児をもうけることになります。しかし、すぐにゴメルは夫であるホセアを捨て、再び遊女時代の悪しき性癖から、若い愛人と共に蒸発します。ゴメルはやがて、その愛人からも捨てられ、再び遊女(奴隷)として身売りされました。その時、再び主なる神がホセアに命じ、彼は悲痛な思いをもって、彼女を買い戻すことになります。


 その中でホセアは、自分の妻が何度も元の商売(遊女)に戻り、なかば離婚状態に等しい状況にあっても、神のご命令に従って妻を、元の聖なるポジション(自分の妻という位置)に立ち返らせるべく、如何なる「代価」を支払ってでも、ゴメルを買い戻すという苦渋の決断を実行しました。父なる神が、彼に指示した「命令」は、父なる神の「罪人(私たち)」に対する、「御思い(愛)」を示しています。つまり私たちが、ゴメルの如き「負債」だらけの者であったとしても、主なる神が「全き汚れも無き子羊」として、私たちのことを受け入れて下さる理由、それは子羊(イエス・キリスト)の流された純潔の「血潮」が、私たちの「全て」を覆い尽くしているからです。


 私たちはイエス・キリストの、「復活」という豊かな「恵み」と、「不滅の命」をこの世において現すために、召し出されているキリストの民です。そして私たちが「この世」において、如何なる「屈辱」と「苦しみ」の中にあっても、立ち続けることが出来るのは、イエス・キリストの流された贖いの子羊の「血潮」が、豊かに注がれているからです。それ故、私たちはこの世に対して、如何なる霊的な「借金(負債)」を負う必要はありません。そうです!私たちは単純な信仰をもって、イエス・キリストの「血潮」を、へり下って受け取るだけで、「この世」から買い戻されて(贖われて)いるのです!


 主イエス・キリストによる、この麗しく豊かな「贖い」の代価を、あなたが常に父なる神の「恵み」として、日々の信仰生活の中で受け取ることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する