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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.15)

                    主の掟を遵守しなさい!



主がエジプト人を撃つために巡る時、鴨居と二本の柱に塗られた血をご覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束された通り、あなたたちに与えられる土地に入った時、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、「この儀式には、どういう意味があるのですか」と尋ねる時は、こう答えなさい。「これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれた時、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである」と。
                                                                                             【出エジプト記12章23〜27節】


神の「掟」とは?
 今回の御言葉は、先回の神の「ご命令」を、更に詳しく説明する、いわゆる法律などの「付帯的項目」に当たります。つまり先回の神の「ご命令」を、イスラエル全家ばかりでなく、今に生きる私たちも含めて、どのように守り行わなければならないか?それを具体的に説明しています。例えば第一の掟(規定)として、「あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。」(24節)と記述されていますが、この文言が付帯的かつ具体的な「掟」に当たります。


 余談になりますが、私たちの住む現実の世界では、普段は余り気にも留めないのですが、実は様々な「掟」「ルール」「慣習」「法律」に囲まれています。例えば、何気なく自動車を運転する際にも、様々な「速度制限」から「信号標識」などの、運転規則に従いながら運転します。「その時」私たちは、たまにスピード違反したり、前方が黄色信号にも関わらず、ブレーキペダルではなく、ついアクセルペダルを踏んで一気に加速することを、ついついしがちですが、私たちは大抵「交通ルール」を守る目的を、「警察に捕まると、罰金を支払わなければならないから・・・・」などと、逆の意味付けをしています。しかしご存知のように、「交通ルール」を遵守する正しい目的は、運転者ばかりでなく歩行者など、全て「道路」を利用する人々が、安全かつスムーズに運転したり、また生活のために利用することに他なりません。


 それと同様に、神が私たちに与える「命令(掟)」というものは、決して私たちをがんじがらめに縛る、「怖いオマワリさん」の如きイメージではありません。それは「全て」、神が前もって定めたものであり、私たちを安全かつ祝福へと続く、「正しい道」に導くためにあるのです。ところが私たちは、アダム(エバ)の「罪」故に、唯一の「真理の道」である、一本の道(イエス・キリスト)ではなく、自分の「肉の力」を頼みとして、二通り・三通りなどと、幾多の「道」を進もうとする愚か者に過ぎません。それ故父なる神は、私たち「キリストの家族」に対して、「この世」の人々が繰り返すような、様々な「失敗(事故、災害)」を犯さないために、今回の「掟」を補足的なものとして与えているのです。私たちは確かに、肉的な面で「弱く」、「過ち」を犯しやすい存在です。


 ところで父なる神は、「最初の人」であるアダムとエバに対して、如何なる「掟」を与えていたのでしょうか?それは「掟」というより、単純な「祝福の法則」を示したものに過ぎませんでした。神は第一に①「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」、そして第二に②「エデンの園を管理しなさい(男は耕し、女は育て守る)!」と、先ず重要な「使命」を彼らに託した後、続いて「エデンの園の祝福は、ことごとくあなた方の手に委ねている。しかし③園の中央にある善悪の木の実に関しては、近づいても触れても、取って食べることも禁じる!」と命じられました。これらの神の「命令」は、①と②が法律の「条文(本文)」であるのに対し、③は今回の神の「掟」と同様に、付帯的項目に相当します。しかも禁止事項としては、唯一つの条文に過ぎません。そして更に、単純かつ補足条文として、父なる神は③の「掟」に違反した場合、罰則規定を設けるのではなく、「(違反したら)必ず死ぬ」と促すことで、決して善悪の木の生えるフィールドに立ち入らないよう、安全的にアドバイスしている訳です。


 ところが彼らは、父なる神の「アドバイス(愛の言葉)」よりも、サタンの巧妙な「誘い文句」を受け入れ、遂に彼らの「霊」は、それまで神の「命令」に聞き従っていた、本来の正しい機能を喪失し(死に絶え)、「善」と「悪」の狭間で苦しまなければならない、「弱い器」になりました。その結果、人は単純な命令ではなく、様々な「ルール」に縛られることになります。パウロが述べる如く、私たちは神の与える「律法」を、ことごとく遵守できる存在ではありません。唯一「真の子羊」の、贖いの「御業(血潮)」があって初めて、神の「掟」は全うされるのです。「贖い」とは、自分にはとても為し得ないこと、また負債を支払えない「償い(弁償)」などを、誰かが身代わり(身元保証人)となって、その「償い」の全てを支払う(処罰を受ける、刑を被る)ことです。「真の子羊(イエス・キリスト)」が、今も尚「贖い」の御業を完成すべく、十字架上から貴い「血潮」を流し続けて下さっているのです!


モーセに示した神の三つの「掟」
 その「血潮」を、私たちが「全て」の戸口に塗る時に、神の大いなる「救い(祝福)」が、イスラエルの全家に及ぶ訳ですが、神は同時に付帯的項目として、第一に「あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない」ことをも命じられました。更に第二の「掟」として、「あなたたちに与えられる土地に入った時、この儀式を守らねばならない」と命じています。「新しい土地」に踏み入ることは、私たちが信仰をもって、新しく進み行く「道のり」のことです。


 つまり「仕事」をする時にも、「何か」を為す全ての過程においても、父なる神の「御心」を優先して、「儀式」を守り行うように命じています。この「儀式」とは、「過越しの祭り」のことです。聖なる「子羊」、即ちイエス・キリストが、私たち一人一人のために、「贖い」の業を完成すべく、貴い「血潮」を注ぎ出すことで、私たちの「霊」に血潮の十字架を示されています。それ故に私たちは、常にイエス・キリストの「血潮」のイメージを、「新しい土地」に踏み入る際に、霊的に描く務めがあるのです.。イエス・キリストの、十字架の「血潮」が注がれることによって、あなたの「手の業」、踏み入る「足の業」の全てが、イエス・キリストの「贖い」として完成されるのです!


 私たちの「子供」、そして更に未信者の人々は、必ず私たちの信仰行動を、注意深く見ていることを知って下さい!つまり私たちが、イエス・キリストの十字架の「血潮」をもって、例えば「癒し」のために祈る姿、また癒される奇跡を目の当たりにした時、彼らは必ず次のように質問してくることでしょう。「主イエス・キリストの血潮とは、一体何ですか?何の意味があるのですか?」と。主イエス・キリストの「血潮」は、唯一「真の子羊」という、「生贄(贖い)」から流されたものです。「生贄」には、必ず「血潮」を流す、即ち「死」が要求されます。イエス・キリストの「血潮」は、いつかは腐れ果てて、何の役にも立たなくなる、いわゆる「人」の血液ではなく、唯一の「贖い」を現すべく、今も尚信じる全ての人に、新しい復活(永遠の命)を保証し、真に生きる力を与えるものです!と、このように私たちは、必ず説明するはずです。これが「第三の掟」になります。


 霊的に「真の神」を求めて飢え渇いている人は、必ず本物の「宗教」を求めて、私たちキリスト者にも近づいて、次のように問い質すでしょう!「イエス・キリストの血潮って何ですか?」、「どういう力があるのですか?」、「あなた方が拝んでいる、十字架は何の意味ですか?何故赤いのですか?」などと。「その時」私たちは、「待ってましたー!聖霊様、これが説き明かすことですね。」と、聖霊様の「促し」に従って、大胆に「第三の掟」を遵守することになります。


 主イエス・キリストの十字架の「血潮」は、未信者にとって意味不明の概念であっても、あなたが信じる時に、聖霊様は必ずイエス・キリストの、「血潮」の御業を現します。そして「その時」に、あなたは単純に彼らの「問い」に対して、「血潮」の福音を流す(語る)だけでよいのです!パウロとシラスを、「獄中」の一番奥深くに収監した看守長は、突然の大地震により監獄の扉が壊れ、全ての囚人が脱走したものと錯覚しました。そして思わず、自ら責任を取って自殺しようとした時、パウロの「命令」により、「死」から解放されました。彼はすかさず、パウロに問い質しました。「救われるためには、どうしたらよいのですか?」と。すると、パウロは聖霊に命じられるまま、一番単純な言葉をもって、つまり看守長が理解できる、説き明かしの言葉をもって、イエス・キリストの「命の言葉」を語りました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」と。


 2007年は全ての業界において、「偽装事件」が大量に発覚した一年でしたが、彼ら当事者は必ず記者会見の時に、「この度、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。・・・・必ず今後、決められた各手順(ルール)にしたがって法令遵守することを、ここにお誓い申し上げます。」などと、決まり文句の謝罪をします。最初は、大抵の人が各「掟」を、それなりに遵守します。ところが次第に、「掟」を自分流に解釈して、「誰も見ていないから・・・・」、「今は大丈夫だから・・・」などと、逸脱する方向性に傾いてゆくのです。


 しかし、私たち「キリストの家族」の場合は、如何なる時にも聖霊様が、必ず「弱い私たち」を贖うべく、イエス・キリストの十字架を指し示します。「確かにあなたは、今苦しんでいますね。だったら何故、今この時に、主イエス・キリストの、贖いの十字架を血潮を用いないのですか?己の血潮を精神に塗っても、自己憐憫に陥るだけですよ。イエス・キリストの十字架のみを見上げなさい!その流される血潮を、今受け取りなさい!そして塗るのです。」と。聖霊様は、あなたの「弱さ」をご存知です。そればかりか、あなたに必要な「天の力」と、「知恵」や「理解力」を与えながら、あなたの為に執り成して下さっています。あなたも主イエス・キリストの、豊かな「神の家族」として、また麗しい「花嫁」として、益々主イエス・キリストの「救い」を求め続けられることを、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン!


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