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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.13)

                  祝福の手に造り変えられる



ヨセフは二人の息子のうち、エフライムを自分の右手でイスラエルの左手に向かわせ、マナセを自分の左手でイスラエルの右手に向かわせ、二人を近寄らせた。イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。・・・・・・・・ヨセフは、父が右手をエフライムの頭の上に置いているのを見て、不満に思い・・・・言った。「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いて下さい。」ところが、父はそれを拒んで言った。「いや、分かっている。私の子よ、私には分かっている。この子も一つの民となり、大きくなるであろう。しかし、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる。」
                                                                                                        【創世記48章13〜19節】


 ご存知のように、 イスラエル(ヤコブ)は生まれた時から、今回のストーリーの霊的キーワード、即ち自分の「手(hand)」が、彼の人生を支配しました。彼は母リベカの胎内から出た際、兄エサウの足のかかとを、自分の両手で掴み取りながら、兄と同時に生まれました。つまり彼は、その名「ヤコブ(兄のかかとを掴む)」の意味する通り、奪う(祝福を騙し取る)者としての人生を辿ることになります。


 それ故に、彼はその後幾多の「苦しみ」と、「艱難」を味わうことになった訳ですが、人生の「終わり(晩年)」に至った時にも、最愛の息子(ベニヤミン)を、エジプトに引き渡さなければならないという、最大の「苦しみ」を経験しました。彼は自分の人生を歩む中で、自分の手で「成功」と「勝利」を掴み取りましたが、それと同時に父なる神の「御手」によって、「苦しみ」の人生を通される中で、神の絶えざる「取扱い」も受けました。


 そして今回の神の「取扱い」、それはアブラハム・イサクから続く、神の「祝福」という天的遺産を、自分の「子」の誰に残す(託す)べきか?という最後の課題でした。ところが彼の元から、全ての「子」がエジプトに連れ出されて、もはや誰も残っていない!という現実に直面します。「全て」の望み(希望)が絶たれてしまった!と気落ちする彼の元に、暫くしてベニヤミンを除く、他の息子たち全員が帰還し、ある重大ニュースをヤコブに届けました。それは、死んだと思っていた「ヨセフ」が、エジプトにおいて存命であり、エジプト国政の重鎮として、エジプト経済政策の舵を取っていること、そして二人の息子(ヤコブから見て孫)にも恵まれて、豊かに暮らしているという、ヤコブにとって人生最大の「吉報」でした。


「右手」と「左手」の霊的意味
 私たちは、自分の「手」で「何か」を掴んだり、努力して築き上げたりした時、必ずある種の期待感をもって、自己満足の心境に入ります。例えば私たちは、自分の「計画」や「思い」を立ち上げ、何らかの行動(実行)に移す時に、必ず「こぶし」を強く握り、自然と「手」を天に挙げるようなポーズをとります。また「怒り」などを表現する時にも、さっと「手」が挙がります。とにかく、私たちの「手」の表現(行動)は、必ずその人から発する強い「意思」が、自然と「手」に流れるようなプロセスで為されます。


 私たちは、「右利き」の人が圧倒的に多い訳ですが、聖書が説明する際に、この「右手」が示す霊的意味は、人の持つ「権威」と「力」などを表しています。そして、今回のストーリーにある如くに、それは神から与えられる「祝福」を受け継ぐ、つまりキリストの「家督権」を相続する際に、父から「継承者」に祝福の祈りを授ける時の、「権威」の機能を果たす器官、それが「右手」なのです。ところで私たちは、「自分(自己)」を盛んにアピールする場合に、必ず自分の「右手」を振りかざして、「演じる(演説する)」ことをします。「施しをする時には、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」(マタイ6章3節)の御言葉に記されているように、私たちの「右手」は、いとも簡単に自分が強く抱いている、「意思」「プライド」「思い」「願い」などを、「右手」の仕草として現します。つまり、「左手」に知らせる行為になっている訳です。


 父なる神が、ヤコブの「右手」と「左手」をもって、ヨセフの二人の息子に為された「祝福」の方法(業)は、ヤコブ自身が決めていたことでない次元、つまり想定外の出来事でした。ヤコブは恐らく、ギリギリまで悩んでいたことでしょう。「アブラハムとイサクから続く、神の大いなる祝福の流れ(約束)は、一体どの子に託す(流す)べきだろうか?」と。彼の息子たちの全員が、父の祝福の祈りを受ける者とは、当然エジプトにおいて成功した「ヨセフ」である!と確信していました。


 ところが、聖霊の為される「方法」は違っていました。聖霊様は、私たち「人」の考えそうな三次元的領域を、遥かに優った霊の次元で、全ての「事」を進められます。聖霊はヤコブの「霊」に働きかけ、「ヨセフよ、来なさい!二人の息子を連れて。」と、ヤコブの唇を促しました。その時ヨセフは、「?」と一瞬ためらいましたが、「なるほど!子供たちを含めて、私たち家族を祝福してくれるんだろう!」と思って、父ヤコブの前に出ました(ヤコブから見て左から順に、弟エフライム→ヨセフ→兄マナセの横並び)。ところがヤコブは続いて、「あなたの二人の子供を、もっと近くに来させなさい!」と、ヨセフの期待とは、全く懸け離れた「命令」を下しました。ヨセフは黙って言う通りに、二人の息子をヤコブの元に近寄らせ、事の成り行きを渋々見守りました(この時点で、ヤコブから見て左に弟エフライム、右に兄マナセ)。


両手を交差して置く
 すると「その時」、父ヤコブは「右手」を弟エフライムに、「左手」を兄マナセにクロスして、頭に触れながら祈り始めたのです。当然の如くヨセフは、ヤコブの異常な行動に気付き、慌てて「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いて下さい。」(18節)と、憤慨しながら訴え出ました。


 ヤコブは、ヨセフの「慌てぶり」と「憤り」を、予想していたかの如くに、逆に落ち着いて制しながら「いや、分かっている。私の子よ、私には分かっている。」(19節)と優しく応答しました。何故なら彼は、自分の人生の始まりの時点(出生の時)において、神の「祝福」を人間的に、「騙し取る」という悪しき行為を、自分の「両手」をもって為したこと、しかし神が全てのことを導いている、つまり支配していて下さることを、十分に考慮に入れながら、「このことを為しているのは、あなたの父(私)ではなく、真の全能の神、父なる神ご自身である!この父なる神が、私に命じている。マナセも確かに長男として、祝福の継承者にふさわしいかも知れない。しかし、神のご計画の中にあっては、長男マナセではなく、弟のエフライムを通して、イスラエルの全家を救う(贖う)という、天上の財産を流す祝福の源となること、これが父なる神のご意思である!」と、ヨセフに神の御心を告げたのです。


 ヨセフは当初、「自分の長子マナセが、いずれアブラハムから続く、神の祝福を継承していくだろう。だからその前に先ず、唯一成功したこの私が、父から祝福を授かろう!」などと勝手に思い、自分の「右手」のこぶしを強く握り締めながら、「その時」を待っていました。ところが実際には、父ヤコブの「右手」は、自分でもマナセでもなく、予想も期待もしていなかった、エフライムの頭の上に置かれる、その一連のプロセスを見て、思わず父の「右手」をどかして、無理矢理にでもマナセの頭の上に、移動しようと試みました。ところが、年老いて筋力が殆ど無くなった、父ヤコブの「右手」は、まるで鉄の塊の如くに、全く動かすことが出来ませんでした。


 私たちは、この時のヨセフの如くに、理不尽な立場におかれた時、「神は何とむごいことを、私の人生に(今の今になって)為されるのか!もう十分ではないか。私は、どれほど長い期間、神によって取扱われ苦労してきたか。何故、再び・・・・?」などと、自分の「計画(意思)」を主張します。つまり私たちは、どれほど聖められた器になっても、すぐに「何故?」という、自分の強い「意思」を神に示そうとするのです。私たちは、この時のヨセフの如くに、神の為されている次元を、「?」と捉えるのではなく、単純に有りのまま、つまり右手と左手がクロスしているイメージとして、信仰的に捉えるべきです。そうです!神の「ご計画」は常に、人の「計画」を交差(クロス)しているのです。


 私たちは、神の「御心」を求めて必死に祈ります。そしてある時には、「預言」や「啓示」などを通して、非常に霊的に慰めを受け、自分の「人生」に対して改めて、「期待感(右手を挙げること)」をもって前進します。しかし覚えて下さい!神の「ご計画」は、私たちの「期待」や「計画」通りに、進む訳ではありません。つまり、私たちの抱く時の「次元」と「順番」の中に、神の「御心」が存在するのではなく、遥かに優った「霊的次元」と「順序(手順)」を、聖霊様が管理しながら進めているのです。


 ですから私たちは、神が示されるこの「クロス」という奥義を、単純な信仰で捉え直すことで、ある重要な霊的イメージが再確認できるでしょう。それは、数学で学びましたように、「線」と「線」が平行状態にある限り、これは「クロスする」とは言いません。それは、ただの二本の「線」に過ぎません。しかし平行ではなく、少しでも一つの「線」が角度を変えますと、そこにはクロス状態が出現し、クロスした二本の「線」の中央に、「点」という交わり状態が生じるのです!つまりクロスする時に、必ず接点が生まれる!のです。


 私たちの父なる神は、私たちの三次元的な「思い」の、全てをご存知の方です。父なる神は、そのような「私たち」のことを、ご自分の「御心」と一致しないからと言って、放っておく(平行状態)ことは決して為さらずに、必ず私たちとの「接点」を見出すべく、様々に霊的な「クロス状態」へと導かれるのです。「その時」私たちは、父なる神の「御手」に委ね切る、つまり、私たちが父の「権威」に移行する時に、マナセとエフライムに臨まれた、神の「祝福」にあずかることが出来るのです!ヤコブの「両手」は、マナセとエフライムに同時に触れました。そして神の「祝福」の流れは、二人に同時に注ぎ込まれたのです。決してヤコブは、エフライムが最初に、二番目にマナセと思いながら、「祝福」を祈ったのではありません!


 私たちの「両手」は、何の為に造られているのでしょうか?私たちの「手」は、それが「右手(自分の計画)」であっても、「左手(期待していない計画)」であっても、アダムとエバを創造した際の、父なる神の「ご計画」の中にあっては、本来の麗しい「使い方」が用意されているのです!つまりあなたの「両手」は、父なる神の「権威」に全てを委ね、神の「御心」通り捧げ尽くす時に初めて、あなたにもたらされる唯一の神の「ご計画」、即ち神の「救い」が、あなたの「人生」に為されるのです。


 マナセとエフライムの「祝福」は、どちらかが優れていて、他方が劣っているという論理ではありません。あなたの「計画」の全てを、神の「権威」の下に明け渡す時に、あなたの「マナセ(優れていると思う点)」と、「エフライム(劣ると思う点)」が融合し、あなた(イスラエルの全家)の「救い」が完成されるべく、あなたは既に召し出されているのです。それ故あなたの「人生」において、今まで被ってきた様々な「苦しみ」「悲しみ」の全てが、神の「方程式」の中で融合され、神の決定する「その時」に、「答え(神の報い)」が出現するのです!私たちは何よりも、この「両手」をもって神に賛美し、霊と真をもって仕えていく、祝福の「手」に造り変えられることを、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン!


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