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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.35)

                    罪の「贖い」の大きさ
 



さて、あるパリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがパリサイ派の人の家に入って食事の席に着かれておられるのを知り、香油の入った石膏の壷を持って来て、後ろからイエスの足元に近寄り、泣きながらその足を涙で濡らし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油をぬった。・・・・パリサイ派の人はこれを見て、「・・・・もし預言者なら、自分に触れている女が誰で、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある。・・・・この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることが少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された・・・・あなたの信仰が、あなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
                                                                                                   【ルカ福音書7章36~54節】
 
「贖罪」とは?
 福音の中核的奥義である「贖罪」という言葉は、私たちキリスト者にとっても、理解し難い概念です。古代バビロニアの『ハムラビ法典』によれば、「罪」を贖う分かり易い(一番合理的な)方法として、「目には目、歯には歯をもって償う!」刑を犯罪者に科しました。つまり犯罪を犯した当人(加害者)が、被害者(その家族或いは親族)に対して、自分の犯した罪の大きさを贖うべく、それ相当の(同程度の)「処罰」をもって償った(自分の身に負った)訳です。
 
 ところが、この身体に被害者と同等の刑罰を科すだけでは、納得の行かない事例、例えば精神的苦痛による、「心的ストレス後外傷(PTSD)」等の疾患は、『ハムラビ法典』の刑罰を科したところで、何の解決(疾患からの完全な回復)には至りません。
 
 私たちキリスト者の場合は、この「贖罪」に関しては、常に意識しておかなければなりません。そうです!唯一の「救い主」、御子イエス・キリストの、十字架の「贖い」により、私たちは完全に全ての「罪」が赦されました。にも関わらず私たちは、このイエス・キリストの「恵み」を戴いていても、依然として「罪」を犯す存在であることも否めません。
 
 ところが父なる神は、子羊イエス・キリストの「血潮」が、豊かに注がれた「私(あなた)」を見る限り、それを「白(無罪の者)」と見なすのです。それはイエス・キリストによる「贖い」の刻印が、私たちの「救い」の証文のサインとして、私たちの全てに押されているからです。
 
 私たちは、神の「恵み(恩寵)」を覚える時に、自分が如何に「罪」深い存在であり、父なる神の不変の「贖い」を、つい忘れてしまう愚かな存在です。例えば、私たちの犯す「罪」の数々を、罪の借金(負債)として換算すると、毎日数十万円(いやもっと大きい)単位で、借金が膨らみ続けていることでしょう。
 
 アダム(エバ)の犯した「罪」の呪いの結果、私たちは物理(肉体)的に、或いは精神的な「苦痛」や「傷」を被りますと、「小さい」あいだは良いのですが、それが「大きく」なればなる程、「赦し」の門戸を一切閉ざして、他者を見るようになります。「絶対あの者は赦さない!」と。これが「罪」の一番恐ろしいところです。如何なる事に対しても、シャットアウトしてしまい、神の「恵み」に対しても、ストレートに受け留められなくなるからです。
 
イエス・キリストの「贖い」の視点
 さて、ルカは今回の「記事」の中で、非常に興味深い福音の奥義を描写しています。具体的な彼女の名前に関して、ルカは何も記述していませんが、ただ「罪深い女」として紹介しています。この表現は読み手にとって、非常に興味をそそられる描き方です。何故ルカは、あえて「罪深い女」として表現したのでしょうか?ルカの価値観の中に、女性蔑視的な偏見があった訳でもありません。神の「命の言葉」の霊的観点から紐解きますと、実はイエス・キリストの語る、一つ一つの「命の言葉」の中に、その真実の理由があるのです!
 
 イエス・キリストの見る「罪」とは、人間が故意に犯す犯罪なども含まれるのですが、むしろ霊的に束縛する「罪」の呪いなどを、ある法則をもって解放し、それを純粋に受け入れた者が、如何に大きく造り変えられるのか、そして虜(とりこ)にされた状態から、完全に解き放たれて真実の「自由」を得る、その「救い(贖い)」のプロセスに焦点を当てます。ですからルカは、この町の中で「罪深い」と、常にレッテルを貼られた、この有名な一女性のことを、あえて世間(社会)的な「名」として記録しませんでした。覚えて戴きたいことは、私たちも彼女同様に、全ての者が霊的には「罪深い」存在です。
 
 今回の彼女は、世間的な差別やレッテルなどを全く恐れずに、イエス・キリストの御許へと、後ろからそっと(周囲に気付かれていても)近寄りました。しかも身を低くして・・・・。何故このような、一見変わった(逆に目立つ)行動を採ったのでしょうか?果たして彼女は、「罪」の赦しを願うために来たのでしょうか?否!彼女は「イエス様こそが、私の救い主であるから、この方の元に行きさえすれば、私は真の自由を得ることが出来る!」こと、この一点を頼みとして、人を恐れず神の「恵み」を信じて来たのです。
 
 イエス様の御許に来た時に、彼女は当然泣くつもりはありませんでした。しかしイエス様の御足を見た瞬間、彼女の「霊」の中から、溢れるばかりの「愛」が湧き上がりました。私たちは他人の「足」を見ただけでは、決して何らかの感情は抱きません。しかし彼女にとって、イエス・キリストのみが、一つも動かず(食事の体勢を崩さず)に、つまり何事もなかったかのように、食べ続けておられたことが、不思議でなりませんでした。
 
 何故なら、そこに居合わせた殆どの者が、彼女が近付いただけで、さー!と身を引くなど、彼女に対して差別(偏見)的な「動き(ざわめき立つこと)」を見せたからです。それに対してイエス・キリストだけは、自分の後ろに誰か(彼女)が来た時にも、全く動かないのです。彼女は、とにかく頭を伏せたまま、イエス・キリストに「救い」を(黙ったまま)祈り求めました。
 
 その瞬間に、聖霊様が彼女の「霊」に働きかけました。「真の救いはイエス・キリストにあり、真の自由はイエス・キリストの愛にある!」と。その結果、彼女はイエス・キリストの愛から流れ出る、真実の「赦し」を受け取り、溢れるばかりの「喜びの涙」が、彼女の両目から尽きること無く、どっと流れ出たのです。そのため彼女は、自分の涙で濡れ広がった、イエス・キリストの御足を、自らの長髪をもって拭き聖め、その後に持参してきた香油をもって、イエス・キリストの「御体」を聖めました。
 
罪の「贖い」の大きさ
 「贖い」とは、イエス・キリストの「喩え」で説明するならば、到底自分の力では返済しきれない、多額の「借金」の帳消し(身代わり)のようなものです。ご存知のように「借金」は、返済する者にとって、精神的な「縛り(束縛)」を与えます。それが完済するまでは、真の「自由」がありません。まるで見えない「鎖」に繋がれた、自由無き奴隷のような状態です。イエス・キリストは、別の箇所において「贖い」のことを、「自らの命を投げ打ってまでも、人質になった者を救い出すために、最大限に用意する身代金」と説明しています。
 
 ですから罪の「贖い」とは、悪しき状態の「虜」となった者を、完全に「自由人」とすべく、自分の「命」を投げ打ってまでも、その者の身代わりとなることです。本来私たちは、自分の「罪」の負債の全てを、自らで支払わなければなりません。しかし私たちキリスト者の場合は、この「罪」の負債という霊的奴隷の状態から、完全に贖われている(自由人とされる)が故に、毎日繰り返される「罪」の縛りを、余り感じる必要が無くなりました。
 
 それ程に、イエス・キリストの十字架の「御業(贖い)」は、文字通り私たちの霊的負債の「身代わり(身代金)」です。そうです!イエス・キリストは今も、ご自身の「十字架」による死という、一度の「生贄(身代わりの刑)」をもって、悪魔サタンに対して「今やこの者(私たち)は有罪ではなく、私の十字架の血潮により無罪である!」と宣告して下さいます。
 
 彼女は聖霊様に促されるまま、真実の愛をイエス・キリストに示しました。それに対して招待する側のシモンは、見せかけの「食事」を提供しただけでした。イエス・キリストは、念を押すかの如くにシモンに言いました。「私の愛するこの婦人(woman)は、私に対して物凄く大きな愛を示してくれた。」と。これは皆の彼女に対する「呼び方(罪深い者)」と比較しても、素晴らしい表現です!イエス様だけが彼女のことを、まるで神の「娘(ご自分の妹)」の如くに、丁寧に取扱っておられるのです。
 
 余談になりますが、保険会社にとって「命(生命)」の値段は、各会社の「相場」が決められています。例えば若い人は「億円」単位に対して、80歳以上の老人は「百万円」単位などと。果たして「命」の価値は、そんな人間的基準で計れるのでしょうか?しかし主なる神の、一人一人の「命」に対する価値基準に関しては、「永遠の愛」の対象と見なす故に、数字に表せない程の「尊いもの」です。ご自身が「命」を創造した以上、一人一人が本来の状態(聖められた者)とすべく、「罪」に汚れた奴隷の如き状態から、完全に贖い(救い)出して聖め、神の「子(皇太子)」として取扱うなど、その「命」は何にも変え難い存在なのです!
 
 数え切れない程の、多くの「罪」が赦されていることを、私たちは神の「愛」の恵みとして示すこと、これは決して義務ではありません!あなたなりの「表現」で良いのです。「天のお父様、あなたの永遠の恵みを感謝します。イエス様の贖いの御業を感謝します。私はこの女性の如き、罪深い者なのか分かりません。しかし、あなた様から見れば、この私も同じ罪深き者です。どうぞ、罪に汚れたこの私を、イエス様の尊い血潮をもって洗い聖めて下さい!イエス・キリストの十字架の血潮は、まさに今の私に必要なものです。私という贖われた体の全てをもって、あなたを真心から愛します。あなた様の贖いの御業故に、溢れ出る程の豊かな、あなた様の永遠の愛の恵みを、如何なる時にも宣べ伝え、永久に歌い讃えます!」と。
 
 多く赦された者は必ず、神の「贖い」の大きさを、日々誉め讃えて感謝するようになります。何故なら私たちは、イエス・キリストにあって、常に「自由人」だからです!全ての「罪」の鎖が解き放たれたことで、私たちは真の「自由」を得ているのです。溢れ出る程の神の「愛」の中に、あなたが「神の子」として豊かに包まれ、日々生かされて参りますように。そして驚くべき神の「恵み」の中で、イエス・キリストの「贖い」の御業を、あなたが常に讃え続けることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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