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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.32)

                     日々の糧を感謝する心
 
荒野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べた。・・・・「・・・・あななたちは我々をこの荒野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」主はモーセに言われた。「見よ、私はあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。私は、彼らが私の指示通りにするかどうかを試す。・・・・」・・・・主はモーセに仰せになった。「私は、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、私があなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒野の地表を覆って薄くて壊れやすいもの(マナ)が大地の霜のように薄く残っていた。・・・・イスラエルの人々は、人の住んでいる土地に着くまで四十年にわたってこのマナを食べた。即ち、カナン地方の境に到着するまで彼らはこのマナを食べた。
                                                                                                                【出エジフト16章】
 
人は「何」によって生きるのか?
 「食」に関する日本語の慣用句には、例えば「のど元過ぎれば熱さを忘れる」という、代表的な表現があります。これは訓戒的な意味合いを示唆するものですが、人間の本能的な行動パターンから分析するならば、人の持つ「食欲」という、激しい飢え渇きのメカニズムを、分かり易く表現したものと言えます。
 
 ところで私たちが先ず、何に増しても考えなければならないポイント、それは
「人は何によって生きているのか?」という問いかけです。十数秒に一人の割合で、「飢え」と「病い」により、多くの子供の「命」が奪われている、今日の地球の現状ですが、その根本原因が「人」と「人」の争い(戦争)によるものです。子供の「命」を尊ばない大人の理屈によって、互いに敵対し合う愚かな人々。それに対抗するかのように、石井十次やガンジー、マザー・テレサなどの偉人たちは、子供の「命」を救うことに身を捧げました。
 
 「飢え渇き」の反意語、それは「満腹感(満たし)」です。これは本来、父なる神が「最初の人(アダム)」に与えた、日々の神の祝福(恵み)です。それ故に「人」は、本来ならば激しい飢え渇きをもって、神が与える日々の「恵み」を感謝して生きることが、自然の「欲求」であり、父なる神も「人」の持つ飢え渇きに対して、更に与え(満たし)たい!と願っておられるのです。
 
 それ故アダムとエバは、「エデンの園」において食べ尽くすことの出来ない、神の祝福の「産物(Fruits)」を味わうことが出来ました。その度に彼らは、父なる神の御許には必ず、自分たちの「飢え渇き」を満たすものが用意され、すぐに戴くことが出来たので、ごく自然に「感謝」の言葉を、いつも父なる神の御前にて、告白していたのです!
 
 イエス・キリストは、四十日に渡る荒野の訓練において、サタンの誘惑(試み)を受けましたが、父なる神の「命の言葉」をもって対抗しました。「人はパンのみにて生くるに非ず。神の口から出る、一つ一つの命の言葉によって生きる!」と。しかし「この世」の理屈は、「食糧」イコール、生活していく上での、最大のエネルギー源である!と説きます。それ故、多くの「パン」を求めて、一生懸命に働きます。
 
四十年続いた「日々の糧」
 「紅海」におけるエジプト軍の全滅という、万軍の主なる神による、驚くべき奇跡を体験したにも関わらず、イスラエルの共同体全体は、荒野をさまよい歩く中で、すぐにもエジプトの「食糧」を思い出し、モーセに不平(苦情)を申し立て始めました。そのためモーセは悩みました。「確かに彼らの言い分も理解できるが・・・・」と。しかし、モーセは直ぐに気を取り直して、主なる神に祈り求めました。
 
 すると主なる神は、「彼らに対して私が直接、日々の糧を用意するから、もう心配しなくてもよい。世界一美味しいパンを、早朝に天から降り注ぎ、夕刻には肉をも用意することを保証する。」と返答しました。そして翌朝には「マナ」が降り、夕刻には「うずら」が飛んで来て、宿営に落ちるという奇跡が、何と四十年にも渡って続くことになります。
 
 今日の「飽食の時代」と言われる日本にあって、私たちは「日々の糧」に困る程の、飢饉を体験してはいません。しかし覚えて戴きたい奥義、それは主なる神は誰一人として、「孤児」の如くに飢えることが無きよう、「日々の糧」を必ず用意し、「命のパン」で満たしたい!と望んでおられることです。
 
 しかし日本においても「現実」は、「Poor mother(貧困にあえぐ若き母親)」の問題が、少しずつクローズアップされています。「離婚」や「DV(家庭内暴力)」などが原因とされていますが、若い世代の女性が就職しても、安価な時給で働かざるを得ない、そのような格差社会による経済的歪みによるものが、殆どではないでしょうか!
 
 そんな「日々の糧」に困窮する生活の結果、我が子を児童施設にあずける(手放す)、母親たち(母子家庭)が増加している、それが現実の日本の姿なのです。一見、豊かそうに見える日本の中において、石井十次の生きた時代と、何ら変わり無き事態(孤児が増加する)に陥っていると言えます。
 
 さて私たちキリスト者は、主なる神の豊かな「糧」を、日々戴いている恵まれた民です。「日々の糧」は、この時のイスラエルの民と同様に、四十年という長期に渡る、「天」からの恵みです。いくら富める国家に暮らしていも、決して忘れてならないことがあります。それは「全て」が、主なる神の「恵み」の中において注がれた、麗しい「日々の糧(マナ)」、即ち「天」より日々降り注がれる、豊かな「恵み」によって、私たちは生かされているという点です。
 
 「人」が造り出す「食料品」や「産物」によって、私たち人間は生きていると思っていても、自然や気候の「全て」を支配しておられる、創造主なる神の「恵み」によって生かされているが故に、私たちは日々、神の「恵み」を忘れてはなりません。「人」の幸せを願う気持ちと同じように、私たちは主なる神の「恵み」によって、いつも「心」の飢え渇きから、肉体的な「飢え」に至るまで、全てが満たされ、生かされているのです。
 
「日々の糧」を感謝する心
 主なる神はイスラエルの民に対して、四十年間「日々の糧」を与えて下さいました。しかし彼らの失敗は、この父なる神の「恵み」を、いつも感謝する姿勢ではなく、次第に忘れる(無関心になる)ようになったことです。私たちは日々与えられる、神の「天の糧(恵み)」に対して、無視する(忘れる)のではなく、いつもへり下りながら、感謝して生きることが肝心です。
 
 「日々の糧」を感謝する心は、先ず主なる神の目に見えざる、麗しい「天」の恵みを憶えつつ、続いて身近な人々によって支えられていることを、素直に表明していくことによって、初めて育まれていくのです。
 
 私たちは「日々の糧」を感謝する、真の創造主なる神の民として生きることを、更に求めて行きましょう!そうすれば、「現実」は余り持っているように思えない、困難な生活の中にあっても、隣人に「命のパン」を施すことの出来る、キリストの給食係り(deliver)として、主なる神が大いなる「恵み」を、日々与えて下さること、この「恵み(祝福)」の法則を実践して下さい。
 
 あなたが「感謝」の心に満ち溢れ、日々神の「力」を受けながら生き、周りの人々に対して、神の「恵み」を分かち与えることの出来る、キリストの「しもべ」として祝福されますよう、主イエス・キリストの聖名で感謝してお祈りします。アーメン!


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