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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.6)

                             家族の外套



ある時、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。
                                                                                                        【創世記9章20〜20節】


 ご存知のように、ノアはアダムの直系の子孫です。彼はエノクと同様に、父なる神だけを礼拝し、そして神と共に歩む人生を、アダムの信仰遺産(大事な教訓)として、忠実に守り行った人物です。それ故に、父なる神はノアの信仰を見て、「良し(正しい)!」と認めて下さいました。このストーリーにおける時代背景について言えば、「大洪水」が過ぎ去ってから、どの程度の時間(期間)が経っていたのか、何も詳しく記述されていませんが、同章19節に一人の孫「カナン」と表記されていることから、少なくともノアには、三人の息子家族を通して、十名前後の孫たちに囲まれながら、余生を過ごしていたことが推測できます。と言うことは、この時の地球の人口は、僅か二十名前後の数であり、「過疎村(社会)」とも言うべき、ライフ・スタイルであったことが伺えます。ですから、例えば弟(ヤフェテ)が次兄(ハム)に対して、「実は兄貴(セム)には、・・・・という秘密があるらしい。」などと、簡単に噂話をした場合、この情報は直ちに「ノア村」全体に広まってしまう訳です。


 ノアはある日、上機嫌で「ぶどう酒」を大量に飲み、その結果体中が熱くなったので、「フンドシ」一枚の姿で、酔いつぶれて寝てしまいました。たまたまハムが、用事があり父の天幕を訪れると、彼が今まで見たことの無い、父の「醜態」を眼にすることになり、その時「あー親父め、何という恥ずかしい格好をしているのか!俺だったら、このような愚かな姿には、決してならないな!」などと思い、あきらめて帰宅の途に就こうしました。しかし途中で思いを変え、長兄(セム)と弟(ヤフェテ)の家に立ち寄り、馬鹿にするかのように、父の「恥」を暴露したのです。


後ろから、そっと覆う
 しかしセムとヤフェテの場合、彼らはハムの父に対する「思い」とは、別の次元に立ちながら、不思議な行動を採ることになります。ハムの「告げ口」の中に、明らかに「不誠実さ」があることを、彼らは霊的に汲み取ったからです。それ故に、彼らは「外套(覆うもの)」を持参して、父の天幕に入る時も後ろ歩きで、静かに(そっと)忍び寄り、その外套を二人で持ちながら、そっと父の裸姿を覆いました。そして再び、父の安眠を妨害することなく、直ぐに天幕から立ち去ったのです。


 実は聖霊様も、私たちキリストの家族に対して、この「そっと覆う」という、一連の重要な行動をもって、様々に私たちの「霊」に働きかけることを、ご存知でしょうか?ところで、「最初の人」であるアダム(エバ)が罪を犯した時、父なる神は如何なる「罰」を、彼らに課した(与えた)でしょうか?確かに父なる神は、彼ら二人を「エデンの園」から追放しました。しかしその処分(裁定)は、父親が不良息子に対して、勘当処分を下すかの如くに、まるで怒りを顕にした態度で、永久追放した訳ではありません。父なる神が、彼らを「エデンの園」から追放するに至った時、どれ程の「思い」をもって、心が痛み(傷つき)ながら決断したのか?この点に注目すべきです。


 「どうしたら私の愛する息子(娘)が、この世において苦しむこと無く、また恥を被ることも無く、寂しがらなくても済むだろうか?」という、強い「思い(愛)」を抱きながら、父なる神は子羊を屠り、わざわざその毛皮を裂いて、二人の体型にフイットする、毛皮の衣服を仕立てました。それまでの彼らは、朝方は一時的に覆い隠すことの出来る、にわか仕立てのイチヂクの「葉衣」を、身にまとっていたのですが、昼頃にはしなびれてしまい、再び別のイチヂクの「葉衣」を仕立てるという、非常に哀れな(恥ずかしい)姿をしていたのではないでしょうか!父なる神は、そんな彼らの哀れな姿を見て、「私は、あなた方が如何に罪に染まり、この私を悲しませた者であっても、私主はあなた方を贖い、あなた方を創造し、この世に命ある者として産み出した以上、大いなる愛(慈しみ)をもって、あなた方を養い導き続けなければならない!その聖なる務めの故に、あなた方のために子羊を屠り、あなた方の恥ずかしい部分(罪)の全てを覆い隠すべく、この聖なる衣を仕立てて、そして私自らが着せてあげよう!」と言いながら、彼らに「聖なる外套」を着せて下さったのです。


互いに「外套」を着せ合う
 ノアは三人の息子たちにとって、尊敬すべき一人の「父親」でした。しかしハムは、酔いつぶれた父親の姿を見て、不誠実な「思い」を抱いて、他の兄弟たちに告げ口しました。それに対してセムとヤフェテは、ハムからの悪質な情報を聞いて、逆に「父親」の有様の全てを、緊急にカバーするという行動に移りました。その行為こそが、酔いつぶれて寝ている父親の上に、外套をそっと着せることでした。私たちの家族の中にも、ハムの為したような悪質な行為は、実は起こり得ることです!分かり易い一例を挙げますが、親の立場にある者とって、子供が兄弟喧嘩をしているのを見た時、当然私たちは親として、子供たちを叱る時があります。その時に例えば「一番上のお兄(お姉)ちゃんだから、・・・・しなければいけませんよ!」などと、厳しく長子だけを戒めるとしたら、大抵の長子が「何故、私だけ叱られるのか?弟(妹)だって悪いのに・・・・」などと、自分だけが叱られた「恥」に対して不満が残る、或いは心の傷を受けることになります。


 しかしこの時に、今回のセムとヤフェテの行為の如くに、親も子供の「恥の部分」を、互いにそっと「外套」で覆う(隠す)こと、この場合は公平かつ柔軟に子供を取り扱うことが、本来の「キリストの家族」として為すべき、正しい務めであることを再認識して下さい!ところで、霊的長子であるイエス・キリストは、私たちを「キリストの家族」として、どのように麗しい者へと、造り変えようとしておられるのでしょうか?私たちが、「この世」の人々と同じ次元に立って、互いの「裸(欠点、恥など)」を見て、ただ裁き合う(告げ口する)限りは、私たちも霊的にハムの子孫に過ぎません。しかし私たちは、イエス・キリストを長子とする、「神の家族」なのです!


私は、あなたの為すべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします。・・・・彼(オネシモ)は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにも私にも役立つ者となっています。私の心であるオネシモを、あなたの元に送り帰します。・・・・オネシモは特に私にとってそうですが、あなたにとっては尚更のこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。だから、私を仲間とみなしてくれるのでしたら、オネシモを私と思って迎え入れて下さい。彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それは私の借りにしておいて下さい。私パウロが自筆で書いています。私が自分で支払いましょう。
                                                                                                                  【ピレモン書8章】


 ご存知のように、パウロの手紙の殆どが、彼と同行した弟子の手によって書かれた、口述筆記であるのに対し、この書簡だけはパウロの直筆によるものです。何故パウロが、直接筆を走らせたのか?ピレモンに当てたこの手紙の中に、実はパウロの重要な「思い(メッセージ)」が、今に生きる私たちにも、聖霊の「思い」として投げかけられているのです。かつて、ピレモン(長老)の元で仕えていたオネシモ(奴隷)が、何らかの「不正」行為を、主人(ピレモン)に対して犯した罪により、獄中で服役することになりました。


 しかし神の導きにより、パウロと獄中で出会うことになり、その時からこのオネシモが、今度は「神の奴隷(キリスト者)」に造り変えられたのです。そして再び、今度はこの新生したオネシモを、ピレモンの元に遣わすに当たり、パウロは直筆で「オネシモを私と思って迎え入れて下さい。」(17節)と書くことで、ピレモンに懇願している訳ですが、このパウロの表現の中に、イエス・キリストの「心(愛)」が現れています。


 パウロもセムとヤフェテの如くに、父なる神の絶えざる「恵み」と、イエス・キリストを通しての、十字架による「救い(贖い)」があったからこそ、オネシモの全て(ピレモンから見て罪人)を、自分の「恥」として受け留め、イエス・キリストの「救い」を通して、カバーする(そっと覆う)行為を、へり下って為すことが出来ました。私たちもハムの如くに、「家族」の中において様々な「恥」を、不注意に暴露することがあります。


 しかし私たちは、互いの「恥」を裁き合うのではなく、「キリストの家族」としてカバーし合いながら、むしろ逆にパウロ(セムとヤフェテ) の如くに、自分の「恥」として負いながら、父なる神に執り成す務めがあるのです。そうです!私たちはキリストの「外套」を、互いに着せ合うべきです。そうすれば、あなたの「家族」に対する執り成しの「祈り」が、必ずイエス・キリストの「ご計画」を通して、父なる神の定めた「その時」に、キリストの「外套(救いの衣)」が着せられ、神の贖いの「御業」が完成されることを、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン!


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