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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.4)

                神のご計画は継続している


 私たちはキリストの「家族」であり、父なる神によって豊かに迎え入れられる、大いなる「神の国」の共同相続人です。それ故私たちは、父なる神の麗しい「ご計画」の中で、その豊かな御国の遺産を受け継ぐ者として、またキリストの「家族」の重要な一員(メンバー)として、聖霊によって練られ(整えられ)、日々霊的に成長していくことが求められます。


再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。セトにも男の子が産まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。
                                                                                                        【創世記4章25〜26節】


アダムとエバの失意(不信仰)
 アダム(エバ)を通して始められた父なる神の「ご計画」は、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」(創世記1章28節)の御言葉の如くに、彼らの「実(子孫)」が豊かに繁栄し、「神の国」の聖なる麗しさが、彼ら「家族」を通して再び、この地にも実現(成就)していくことでした。それ故、彼らに念願の「赤子」が二人も授かったことは、如何に大いなる「喜び(救い)」をもたらしたことでしょう!彼らは「親」として子供たちに、何よりも父なる神に感謝の生贄を捧げることで、「神の恵み無くして、今の自分たち(家族)は在り得ない!」ことを、信仰の遺訓として常々教え諭しました。


 ところがカイン(長子)は、実の弟(アベル)を殺すという、人類始まって以来最大の「罪」を犯しました。その結果、アダム(エバ)はこの事実を知った時、自分たちが「エデンの園」を去った時以上の、失意のどん底に陥りました。自分たちが「産み」の苦しみを経て、遂に授かった「我が子」が、家族(肉親)の一人の「命」を、この地上から抹殺するということは、「親」として耐え難い「苦しみ」になりました。それ故、当然の「報い」かも知れませんが、カインは「両親」の暮らす地から、去らざるを得ませんでした。


 ・・・・そしてアダム(エバ)に残ったものは、将来の人生における「失望」と、神の「ご計画」に対する「不信仰」でした。「あー、もう終わった!これ以上に無い、恐ろしい罪を犯した我ら家族に、もはや神の祝福は降り注がれない。親として、子の罪の報い(呪い)を受けるだけだ!」などの思い(失意)の中にありました。そして夫婦の語り合いの中では、「恐らく神は、私たちを見放された!」などと、勝手に「孤独感」を共有し合う程、彼らは絶望したのです。私たちも時折「不信仰」に陥った時、「かつては確かに、神は祝福し(この私を)用いて下さった!ところが今の私と言えば、何もしていないではないですか?この私に、これ以上何の良きものを、産み出すことが出来ると言うのですか!」などと塞ぎ込みます。


 しかし覚えて下さい!「家族」の中に始められた、父なる神の麗しい「御業」というものは、私たちの三次元的「肉の眼」で、一度途絶えたかのように見える状況に陥ったとしても、その「ご計画」は父なる神の「御心」通りに、必ず再開される(継続している)のです!その証拠に、彼らにはその後エバの胎の中に、「セト」という素晴らしい「命」が、再び聖霊を通して宿る「恵み」にあずかりました。私たちがこの記事を読む時、聖霊様は私たちの「霊」の中に、又私たちの不信仰的な「思い」の中にも、神の「ご計画」は必ず再開される!という、この素晴らしい「事実」を、より深く刻み込んで下さっているのです。つまり聖霊様は、カインの犯した重大な「罪」を、決して「親」の代にさかのぼって、「報い(刑罰)」を与えるのではなく、むしろ神の偉大なる「ご計画」の中にあっては、彼らが考えていた祝福(子孫の繁栄)の方法とは、別の次元にあることを、私たちにも教え諭しているのです。


 彼らは当然、「カイン」と「アベル」を通して、二本の潮流(子孫繁栄の流れ)が始まるものと期待していました。それ故、もはや「ゼロ」になったものと思い込んでいた彼らに、再び「セト」が授けられた時、彼らはカインとアベルを授かる時とは、全く別の次元での大いなる「喜び」と、「慰め」を得ることになりました。彼らはそれまで、「もし私たちに、新しい子(命)を授かったとしても、再びカインのように、愚かな過ちを繰り返すことになったら、どうしよう・・・・」などと過去のトラウマが甦り、「産む」ことに躊躇していたかも知れません。


「セト」を授かることの意義
 しかし父なる神は、そのような彼らを決して忘れることなく、再び天の窓を開き「恵み(新しいし命)」を授けられたのです。「その時」に得た、彼らの大いなる慰めの表現が、「セト」という名前に刻まれています。「セト」とは、神がこのような不信仰な者にも、忘れることなく恵みを授けて下さったー!(シャトー)というヘブル語から付けた名前です。5章には、父なる神が再び「セト」を通して、アダムの新しい家系として選んで下さっていることが、正確に記述されています。


 4章26節の記述から分ることですが、恐らくセトは自分が産まれ出た「理由(経緯)」と、実の兄(カイン)が殺人を犯したという事実を、両親から聞いて育ちました。それ故セトは、成人して自らも「子」を授かった際に、主の御名を心から呼び求める時に、父なる神は必ず応えて下さるという「信仰」を、両親から継承しました。「この世」の人々でさえ、家名や財産を子孫に遺すべく「跡継ぎ」問題に取り組んだり、自分の培ってきたものを次世代に継承(伝承)していくことを、真剣に考えながら生きています。即ち「親」というものは、必ず「子」に何かを託す(遺す)ことを目標に生き、例えば本能的に「家系」を存続させる習性がある訳です。


 ならば私たち「キリストの家族」も、霊的に「何」を次世代(子供)に継承していくべきでしょうか?このことを、真剣に考えながら生きている人々は、文字通り「信仰」に満ちた、主の御名を呼び求める人々のことです。ところが、私たちは前述しましたように、「もう終わった!」などと思える程の、「絶望感」と「不信仰」に陥った時に、主の御名を呼び求め続けるという、一番大事な「セト」の信仰を忘れている(押入れに放ったまま使用しない)のです。それ程、現実の私たちは「弱い器」です。本来は父なる神の豊かな「恵み」を、十分に受け入れることの出来る、素晴らしい「器」でしたが、ご存知のようにアダム(エバ)の罪の結果、私たちという霊的な「器」は、「命の水」より「世の水」を優先的に溜め込む、不信仰に生きる愚かな者です。


 しかし覚えて下さい!一度始められた父なる神の「ご計画」というものは、私たちが考えている次元には存在しません。信仰の創始者であり完成者である神は、自らが「御心」のままに、その「プロセス」を行使(進行)する責任を担う以上、それを中座(延期)したり、放棄する(破綻させる)ようなことは絶対なさいません!つまり父なる神が、私たちに対して開始されている、大いなる霊的取扱い(導き)は、「完成(実現)」の時を目指して、今も尚神の「働き」が継続しており、必ず「その時」至りて、完成式も用意されているのです。


ヨブの学んだ神の「ご計画」の偉大さ


ヨブは主に答えて言った。「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることは出来ないと悟りました。・・・・あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それ故、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」
                                                                                                            【ヨブ記42章1〜6節】


 ヨブは、友人からの様々なアドバイスを聞き、また自分勝手に思い悩む過程において、恐らく不信仰に陥り自暴自棄になる中で、「もう終わった!神は私の人生から離れ去られた。確かに私は、かつて神の繁栄(祝福)の中にあり、神の声を聞く恵みにあずかることが出来た。しかし今の自分は、もう何も無くなった。」などと打ちひしがれ、いよいよ最終段階に至った時、聖霊を通して「主ご自信は、それでも尚(私のことを)、愛の眼差しをもって見守って下さり、私の息使い一つ一つにも、御耳をもって聞いて下さる。私が不信仰の言葉を吐く時にも、優しき御手をもって、まるで父親(母親)の如くに抱いて下さる!」ことを示されました。「その時」遂に彼は、自分が何と愚かにも、神に対して「望み」を失っていたかに気付かされ、心から悔い改めたのです。そして「私が神を信じて生きているのではなく、神との親しい交わり(臨在)の中にあって初めて、自分が神によって生かされ、神のご計画の中にあずかっている!」という、重要な「教訓」を学んだのです。


 アダムとエバは「セト」を授かった時に、父なる神の「ご計画」の偉大さを、余すこと無く知ることが出来ました。そして、新しい我が子(セト)を通して次々と子孫が産まれ出る、神の「ご計画(恵み)」の実現を見せられる時に、自分たちが神の「ご計画」に対して、如何に誤った見方をしていたか、このことをも知ったのです。即ち私たちは、決して神から見捨てられた孤児でもなく、迷い子でもありません!私たちは「キリストの家族」の重要な一員として、豊かに(暖かく)神に迎え入れられ、今も尚イエス・キリストは私たちに対して、「愛する息子(娘)よ、私はあなたに対して今も恵みを、十分に注いでいるではありませんか!私を中心とする、親しい愛の交わりの中にあって初めて、あなたが復活してくるのです!あなたが始める必要はありません!」と語りかけて下さいます。


 仮に「自分」が始めようとしますと、それは必ず途中で破綻(失敗)します。私たちは、イエス・キリストの「御業」のみに期待しましょう!イエス・キリストは、「あなた」という素晴らしい「器」を通して、「キリストの家族」の中に始められる、父なる神の麗しい「ご計画」を、日々あなたの人生に創造し、(ヨブ同様に)かつて無かった程の「恵み(祝福)」が、既に用意されていることを、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン!


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