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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.29)

                  神の時刻を心に留めよ!



主に自らを委ねよ。主は、あなたの心の願いを叶えて下さる。
                                                                                                                     【詩篇37篇4節】


如何なる「時」を心に留めるか?
  「神の時刻」は、「一日は千年のようだ!」とペテロが述べている如くに、私たち「人」の頭の中では、到底理解できない次元に存在します。この世の人々は、年の暮れになりますと、必ず「忘年会」を催し、一年の中で起きた様々な「時」の記憶を、特に悪しき事に関して忘れようと、大量の「酒」を飲みますが、私たちキリスト者の場合は、決して「忘年」ではなく、常に「時」を心に留めることが求められます。


 「その時」が良くても悪くても、神の為さること「全て」の中に、私たちの「思い」を遥かに優った次元の中で、それを麗しいものとして、聖霊様が完成して下さるからです。即ち神の「摂理」の中に、自分の「全て」を置く時に、それは非常に忘れられない体験になるのではないでしょうか!


 「忘年」とは、まさしく人間のエゴイズムという、「罪」から生まれた考え方です。父なる神が与えて下さっている、「神の時」の次元の中に、神の「御心」を見出す者は、その「全て」が神の麗しさに満ち溢れていることを、一つ一つ確認できることから、人間的な「肉の次元」から、解き放たれて生きるようになります。そして「神の宝は、必ず私の人生の中に、神のご計画を通して、前もって用意されている!」などと、肯定的な信仰の告白を、気軽に宣言することが可能になります。


 では、「神の時」の次元の中に生きる者は、具体的には如何なる信仰によって、日々生きているのでしょうか?ご存知のように神の次元とは、霊の次元(四次元)を指します。それに対して、私たちの住む次元、それは三次元(3D)の世界です。この三次元的枠組みの中において、私たちは五感を働かせながら、様々なものを認識して生きています。


「神の時」の中に生きる信仰
  ところが神の次元においては、この五感ではキャッチできない領域にあるため、上よりの「信仰」が無ければ、「霊の眼」、「霊の耳」、「霊の唇」などの、霊的な賜物が働くことの出来ない、枠組み(仕組み)があるのです。そうです!それ故、私たちに与えられている「復活の信仰」にしても、父なる神の「恵み」に対する希望(期待)にしても、私たちが霊の次元にある信仰を、聖霊様の「助け」を戴きながら働かせる時に、目に見えざる神の領域にあるものを、既に得ていると受け留める信仰、また未だ実際に手にしていない(触ることの出来ない)未来のものを、今実際に手に掴むかの如くに、手に握りしめると宣言することで、聖霊様が私たちの信仰告白に、「上」よりの力を与え、父なる神がα(アルファ)でありω(オメガ)なる方として、必ず完成して下さる!と信じることが出来るのです。


 これが霊の次元に生きる信仰です!父なる神の「憐れみ」と「恵み」は、この日本民族に対して、決して終了しているのでもなく、まさに「今!」あなたの住む町から、神の「霊の次元」の中で取扱われ、いよいよ「完成の時」へと踏み出していることを、是非覚えて下さい!


 特に「バアル(偶像)」と「マモン(金権主義)」の、悪しき霊に従ってきた日本人の多くを、主なる神は様々に取扱っておられます。私たちは、父なる神の大いなる取扱いに期待しましょう!至る所において、「救い主」イエス・キリストの御名を呼び求める、日本人が数多く興されていることを、常に祈り求めましょう!


 私が子供時代の時もそうでしたが、キリスト教を信じていることで、様々な迫害(嫌な体験)を受けました。小学校及び中学校の「社会科」の授業の時は、特に教科書の中において、「キリスト教」の名を出されるのが恥ずかしくて、身を隠すかのように怖かったことを憶えています。ところが高校三年生になり、聖霊のバプテスマを授かった時から、人を怖がる信仰が百八十度変えられました。「キリストの名の故に馬鹿にされたとしても、逆に信仰が強められ、益々人々の救いの為に祈り、伝道への熱き思いが増す!」、このような信仰が与えられたのです。


「真の幸せ」は神の中にある
  今回の御言葉にある、「主に自らを委ねよ。」の部分を直訳しますと、「神の中に、真の幸せがあることを必死に探し求めよ!」となりますが、これは私たちキリスト者が、必死になって「神の宝」を、霊の次元の中で探し求める!ことを、強く教え示しています。まるでそれは「砂金」を、たとえ少量であっても、川の流れの中ですくいながら、必死に探し求める作業に似通っています。目に見えざる神の領域の中に、「真の幸せ」は至る所において、私たちの為に用意されているのです!


 私たちは決して、順番を間違えてはなりません。私たちは三次元的な物質にではなく、真の主なる「神」の中に、私たちの「真の幸せ」を見出すべきです。そして主なる神が、私たちを常に生かして下さること、これこそがイエス・キリストにある、生きる希望ではないでしょうか!


 私たちは神の「御言葉」一つとっても、見えざる神の霊の次元の中にある、素晴らしい「上」よりのものを、あたかも既に得たかの如くに、信仰を働かせて戴く時に、主なる神が私たちの人生の中に、今まで想像したこともない、大いなる祝福を用意して下さり、「この世」の中で圧倒的な勝利者と、成らしめる程の豊かな神の「財(宝)」を、私たちは必ず手に掴むことが出来るのです。


 聖霊様は、私たちが更なる激しい霊的飢え渇き、特に私たちが神との「親しき交わり」という、奥深い霊的次元に入ることを、絶えず求めるように促されます。そして私たちが、更にイエス・キリストの「弟子(使徒)」として、多くの魂を砂採ることの出来る、神の器として仕立てて下さいます。


 あなたが「この世」の中にあって、人々を霊的に建て上げる者として、聖霊様によって練り聖められますように。そして更に「神の時」を心に留め、神の「御心」を豊かに現す、イエス・キリストの花嫁としての働きが、今後も益々祝福されることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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