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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.27)

                    ネジを巻き直しなさい!



このように、全てのものは滅び去るのですから、あなた方は聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、焼け去ることでしょう。しかし私たちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。
                                                                                                 【Ⅱペテロ書3章11~13節】


「聖(清)さ」を求める渇き
 何故「人」は、他の生物と違って極端に、身の回りを片付けようとするなどの、一風変わった習慣(癖)があるのでしょうか?これは恐らく、「人」が生まれながらにして、主なる神の「聖さ」を、霊的に備わっているからでしょう。やはり「清い」状態にしておかないと、気が落ち着かないなど、「清い」状態を保つことで、自分の「心(気持ち)」が落ち着いてくるのではないでしょうか。


 実は、このことは私たちキリスト者の、普段の生活の中において、父なる神が如何なる信仰生活の歩みを、私たちに望んでいるのか?その霊的指針が、明確に示されていると思います。それは決して、律法主義が説く「義務(肉の業)」を示しているのではなく、私たちの「霊」が如何なる状態を欲しているのか、そのこと如何によって、私たちが「世」に属する者か、それとも「天」に属する者、即ち「神の国」の国籍を有する者として、正しく生きるのかを示しているのです。


 そして、それによって更に私たちが、聖霊様の働きを通して霊的に聖い状態へと、信仰がレベルアップしてくるのであれば、実は主イエス・キリストの再臨の時が、「より早まる!」ことを今回の御言葉の中で、ペテロは明確に教え示しているのです。


 ペテロは先ず、「あなた方は聖なる信心深い生活を送らなければなりません。」(11節)と、私たちキリスト者に勧めています。この説明だけでは、私たちは余りが納得が行きません。「全てが滅び去るのでしたら、主よ、むしろ放っておいた方が良いのでは・・・・?」などと思いがちだからです。


 しかし、そうではありません!これは三次元的な「現象」のことではなく、霊的な現象のことを説明しています。ヘブル書の筆者は、「全ての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、誰も主を見ることはできません。」(ヘブル書12章14節)と述べていますが、この奥義は理解するのに、少々難しいものです。しかし私たちが「頭」の中にある、三次元的ネジを巻き直して、「聖なる生活」とは反対のイメージ、つまり汚れに満ちた状態、例えば世俗的な生活を思い浮かべれば、より分かり易くなると思います。


汚れた生活の特徴
 世俗的な生活とは、第一に「この世」の理屈を好む生活のことです。つまり「エゴイズム」に満ちた生き方(生活)が、その主流で「自分(これ)は正しい(うまくやっている)!」などの、自己中心主義に凝り固まった状態を指します。


 第二は、私たちの「弱さ」の最大の特徴である、「この世」的な計算に、全てが支配された生活です。その日その日の収支を、あれこれと考えながら生きることは、何ら霊的に問題は無いのですが、「来月はどうなるのかしら?」、そして「来年は・・・・」などと、「将来」に渡って様々に人間的計算をして、肉の「努力」を重ねながら、「霊」の欲することを無視して歩み続けるならば、それは霊的に見て、汚らわしい状態となっているのではないでしょうか!しかし主なる神は、私たちの肉の「思い煩い(心配)」を、遥かに超えた次元の中で働かれ、私たちの「収支」を償わせても、「余り」ある程の天の祝福をもって、養っていて下さるのです!


 第三は、私たちの肉の「思い」の中にある、根本的かつ最大のもの、つまり「欲」に生きる状態のことです。その「全て」が、自己満足を達成しようとするために生じるものですが、これは「食欲」などの、一般的な欲のことを指しているのではなく、「もっともっと自分が・・・・」、「もっと自分のもの(地位、名声、財など)が・・・・」など、「自分」の欲(願い)を満たすことに、「命」を懸ける生き方のことです。


聖い生活の特徴
 それは「この世」の上に、「砦(自分の城)」を建てて、自己満足という名の座布団の上で、殿様気分になっているかの如きものです。しかし、これら三つの生活とは逆のイメージ、それがペテロの言わんとする、「聖い生活」です。それは第一に、「自己」中心ではなく、「神」中心に生きることを追い求め、何よりも自分の中から生まれる、「肉の法則」にではなく、神の「法(御言葉)」に従う生活です。


 そして第二に、自己の利益を求めるのでもなく、自己の計算に従って生きることも無く、全て神の創造された「時」の始まりと、完成を求める生き方です。たとえ「今」は貧しくとも、主なる神が必ず「時」至りて、溢れる程の「天」の恵みをもって、祝福して下さることを信じて祈る、そして「祝福」を得た後も、その「祝福」を多くの人々の中に、「愛」として流す(注ぐ)ことを常とする、これが「聖い生活」の第二の特徴です。


「神の日」を早める信仰生活
 「神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、焼け去ることでしょう。」(12節)ペテロは、「この世」に属しながら生きる道は、必ず「死」に至ると12節の中で述べています。それ故に、私たちは「天地」が滅びる前に、「神の日」が来るのを待ち望み、又「その日」が来るのを、早めるように祈り求めるべきです。


 そして、主なる神が設定している「神のタイマー」には、実は「早める」機能が付いていることを、私たちは知るべきです。つまり「神のタイマー」は、ゼンマイ式時計の如くに、ある一定の「リズム(時の刻むスピード)」で動いています。そして「神のタイマー」のネジを巻き直すのは、私たちの聖なる信心深い生活に関わっています。


 この「聖なる信心深い生活」とは、直訳するならば「神のことを、本当に(心から)思い図って、身も心も捧げ尽くしている(献身的な)生き方」のことです。しかし、だからと言ってカトリックの修道女の如くに、「この世」から分離して生活することを、ペテロが述べているのではありません。それは「何」をする時にも、神の「御心」を第一とし、神の「栄光」のために「仕事」や「食事」、「学び」などを為すこと、つまり神の「御心」が、いつもその者の「心」を奪っている状態のことです。


 これは長距離恋愛をしている、カップルの「心」の状態に似通っています。彼らは互いに、「早く(・・・・したい)!」と、その「心」が互いに奪い合っている(相手を優先する)のではないでしょうか!この時に注意すべき点は、決して「業」を第一とするのではなく、私たちの「霊」が欲することを、聖霊様が正しく「聖い」状態へと導いて下さることを、常に求めるべきであるという点です。


 私たちは、常に「朝」起きた時から、「信仰」のネジを巻き直し、そして更に「霊」の次元のことを欲する生き方、即ち「この世」的な計算(計画)をする生き方ではなく、神の「喜ばれること」のみを為していく生き方へと、聖霊によって切り替えて戴きましょう。そのためには、私たちが先ず「何」にましても、「神」中心の思いで、主イエス・キリストの来臨を激しく待ち望む、即ち「花婿イエス様、早く来て下さい!」と告白し前進することが大事です。


 私たちの「心」と「霊」が、たとえ「世」にあっても、常に神の「祝福」の中で、「余り(ゆとり)」ある程のもので必ず満ちていること、これが聖い生活の「基本」的状態です!ですから、「この世」の枠組みである金銭的な計算で、日常の生活を判断しないで下さい!目に見えざる神の「祝福」に、私たちの霊の眼が、しっかりと捉えて離さないように!


 神の為される「時」の次元は、私たちの三次元的な時間の枠組みを超えた、霊の次元の中にあって働いています。「時」が良くても悪くても、私たちは「信仰の種」を蒔き続けましょう!そして「昼」も「夜」も、私たちが大事に守り行うべきこと、それは神の「命の言葉」を愛し、そして口すざむ(告白する)ことです。そうすれば神の「奇跡」は、必ず「私(あなた)」の元に訪れます。


 あなたが、「神の時」の次元を歩く者として、聖霊様の「上」よりの力を通して、常に霊的なネジを巻き直すことが出来ますように!そして「天の窓」を開いて、その先にある主なる神の「御目」を、しっかりと見ることの出来る者でありますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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